2017年3月号 [Vol.27 No.12] 通巻第315号 201703_315001

魅惑と混迷の国インド —CONTRAILが捉えた冬小麦のCO2吸収—

  • 地球環境研究センター 大気・海洋モニタリング推進室 特別研究員 梅澤拓

1. はじめに

溢れんばかりのバイク、リキシャ、車そして人々の秩序なき往来。舞い上がる土埃。押しの強い路上の物売り。連綿たる歴史が息づく遺跡の数々。発展目覚ましい情報産業。数々の強烈な特徴が渾然一体となって旅行者を魅了し続ける国インド、そしてその首都デリー。今回は観光ガイドには現れないデリー地域の特徴を炭素循環の視点から紹介したい。なお、本稿に係わる研究成果の詳細は発表論文[1]や記者発表文[2]をご参照いただき、ここでは研究背景を中心に私見を述べたい。

2. インドへ飛ぶCONTRAIL

CONTRAILプロジェクト[3]は2005年の観測開始から10年を数え、その間、世界各国の上空で大量の温室効果気体の観測データを取得してきた。大気中の二酸化炭素(CO2)分布は地表排出源・吸収源の地理的分布・強度、そして大気輸送の結果であり、大気観測は排出量インベントリのトップダウン検証に欠かせない正確な情報を提供する。各国の人為排出量の検証のためには、その他の変動要因である自然排出源・吸収源、大気輸送の理解が不可欠である。インドを含む南アジアの炭素収支はこれらのあらゆる面で理解が乏しく、そのひとつの阻害要因は大気観測の不足である。半世紀を越えた世界のCO2観測の歴史を経ても、インド国内での系統だったCO2観測は片手で数えるほどしか存在せず、これでは広大なインド亜大陸の炭素循環の解明には程遠い。民間旅客機を利用したCONTRAILプロジェクトは、各国の空港直上に観測基地を整備したのと同等の成果をもたらす。そして過去10年で充実したCO2データが得られた場所のひとつがデリーである。

3. デリーの気候と農業

デリーは、インド北部、ヒマラヤ山脈に沿って広がるヒンドゥスターン平野の北西部に位置する。インドを代表する大河ガンジスとその支流が、北西から南東へ肥沃な平野を形成し、地域一帯は集約的農業が広く行われるインドの穀倉地帯となっている。その結果、世界有数の人口密集地域でもある。ヒンドゥスターン平野の土地利用を眺めてみれば、いずれの主要都市もその周りを広大な農地に囲まれていることがわかる(図1)。農業には適切な気候が不可欠であり、インド亜大陸特有のモンスーン(季節風)が果たす役割は大きい。南西モンスーンの到来とともに、6–9月は雨期となる。年間でもっとも気温が低いのは1月だが、それでも最高気温は20°C弱を保ち、南西モンスーン直前の4–5月のデリーの日最高気温は40°Cにも達する(図2)。このように変化の激しい気候のもと、ヒンドゥスターン平野では広く輪作が行われる。大量の水を要する稲作をモンスーン期に行い、その後に小麦を育てる。カレーの付け合わせ、ライスとナンの原料は同じ農地で違う季節に栽培されるのである。

さて、インド北部が炭素循環にとって激動の地域であろうことが想像していただけるだろうか。都市の発展に伴う急速な人為排出の増大、広大な農業活動による炭素循環への影響、そしてモンスーンによる地域特有の季節性は、温帯・寒帯地域で積み上げられてきた炭素循環の「常識」が通用しないことを匂わせる。この地域の炭素循環の一端を表す大気中のCO2変動はどのようなものなのだろうか。

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図1デリー空港周辺の土地利用の様子。土地被覆データはGlobCover 2009(http://www.esa-landcover-cci.org)から取得した。点線は12月のCONTRAIL観測日について、METEX(http://db.cger.nies.go.jp/metex)で計算したデリー上空高度1kmの空気塊の過去24時間の後方流跡線解析

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図2デリー空港における2010年の気温(左軸)と降水量(右軸)の変動。オレンジの帯の上端(下端)が日最高(最低)気温、赤線が日平均気温。青棒線が降水量。データはWeather Underground(https://www.wunderground.com)から取得した。また、上部にはデリー近郊の農作物カレンダー(インド経済統計局のデータに基づく)を示した

4. デリー上空の謎のCO2変動

図3がCONTRAILの捉えた東京(成田空港)上空とデリー上空のCO2濃度の季節変化である。北半球における大気中CO2濃度の季節変動は、陸上植物と大気のCO2交換(呼吸と光合成)が支配すると広く理解されている。東京上空のCO2濃度は、概して北半球中高緯度の植物圏の季節変動をよく捉えており、秋から春の間、地表付近から上空へと高濃度が広がってゆくのは主に植物の呼吸の卓越を反映するものである。一方、デリー上空のCO2濃度の季節変動には二つの特徴が顕著である。一つ目は、8–9月の低濃度が上空まで深く貫いていることである。二つ目は、東京上空の地表付近で見られる冬期の持続的なCO2濃度の上昇がデリー上空では1–3月に全く見られないことであり、これが今回の研究の主題である。デリーは北緯28.6度に位置し、成田空港の北緯35.8度と緯度が大きく異なるわけではない。しかし両地点上空のCO2濃度の季節変動や鉛直分布の著しい違いは、両地点でのCO2変動の支配メカニズムが大きく異なることを示している。

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図3東京(成田空港)上空とデリー上空でのCO2濃度の鉛直分布の季節変動。経年増加を補正し、年を跨いだ変動を見やすくするため、2年分の変動を示した。東京上空で見られる赤実線の濃度上昇と類似の変動がデリー上空では見られないこと(青点線)が今回の研究で注目した部分である

さて、図3のCO2の季節変動は、CONTRAIL機が離着陸する際に観測した何百本もの鉛直分布を平均して得られた結果である。1–3月に何が起こっているのかの手がかりは、個々の鉛直分布データの中にある。CONTRAILチームでは、長年のデリー上空データの品質検査の中で、冬のデリーは何かがおかしいことに気付いていた。地表付近で急激な濃度低下が出現するのである(図4a)。しかし陸上植物圏がCO2排出源として働くはずのこの時期に、地表で濃度を下げる要因が見当たらない。植物の呼吸による排出や人為排出のため、下層では濃度上昇が予想され、実際このような鉛直分布は季節によらず頻繁に観測される(図4b)。一方で、上述の濃度低下を伴う鉛直分布も1–3月にほぼ毎年出現し、この現象がこの地域にとって一般的であることを物語っている。現在の炭素循環の知見の集約である大気輸送モデルはこの鉛直分布を再現できるだろうか。否であった。大気輸送モデルは下層の濃度上昇(図4b)は概ね再現可能だが、濃度低下(図4a)は全く捉えられない。私たちはインド北西部に未知のCO2吸収源が存在するとの結論に至った。

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図4デリー上空で観測されたCO2濃度の鉛直分布の例。黒点線は気象データから推定した大気混合層の上端

鉛直分布を見ると、濃度低下は大気混合層[4]内で起こっている(図4)。デリー上空の観測データのほとんどが現地時間の夕方に取得されており(定期旅客便のスケジュールによる)、これは大気混合層が十分に発達した時間帯である。大気混合層が日変化を繰り返すことを考えれば、大気混合層内に保持された観測情報は過去24時間のうちに大気に伝搬・蓄積したシグナルの可能性が高い。すなわち、局所的あるいは広くても数100km以内に強い吸収源が存在すると考えるのが妥当である。そこで図1に立ち戻る。デリー近郊数100km以内に主に分布するのは農地であり、デリー上空の大気下層で観測する空気塊(図1の点線)は必然的に過去24時間のうちに農地と接触する。このようなことを念頭に私たちは個々の鉛直分布を解析し、CO2吸収がどの時期に強まるかを調べた。その結果、著しい濃度低下をもたらすCO2吸収は2–3月にその効果が大きいことがわかった(記者発表文 https://www.nies.go.jp/whatsnew/2016/20161201/20161201.htmlの図5を参照)。この時期、周辺農地においては冬小麦が着々と生育している(図2)。インドの冬小麦によるCO2吸収は、少なくとも地域スケールで、自然植生や人為排出と競合するほどの重要性を持つのである。つまり、インドの炭素収支を理解するためには、人為排出と自然植生に加えて、農業活動を理解しなければならない。扉を一つ開けたらその向こうにより深い迷路、炭素循環の研究にとってもインドはまさに魅惑と混迷の国であった。

5. おわりに

最後に、炭素循環における農業の影響を強調したい。既に述べたように、北半球でのCO2の季節変動は陸上植物圏によるCO2交換が主に駆動する。農作物の栽培スケジュールが自然植生の季節変動とほぼ同期するならば、両者のCO2交換を大気変動の中に区別することは困難である。インド北西部では輪作のため、農作物によるCO2交換は明らかに自然植生とずれている。これがデリー上空の特異なCO2の季節変動を形成している。グローバルには、北半球中高緯度におけるCO2濃度の季節振幅が過去数10年にわたって大きくなっており、これが20世紀の農業の発展(生産高の増加)と関連しているという提言もある。農地におけるCO2交換を適切にモデル研究に取り込んでゆくことは今後の重要課題だろう。特にインドではその重要性が高いといえる。地球環境研究センターの炭素循環研究室でもインドでの地上モニタリングを展開しており、農作物栽培の影響がどのように観測結果に現れてくるか、熱い視線が注がれている。

脚注

  1. Umezawa T., Niwa Y., Sawa Y., Machida T., Matsueda H. (2016), Winter crop CO2 uptake inferred from CONTRAIL measurements over Delhi, India, Geophys. Res. Lett., doi: 10.1002/2016GL070939.
  2. インド・デリー周辺の冬小麦が都市排出を上回る二酸化炭素を吸収 〜民間航空機観測(CONTRAIL)から明らかになった新たな炭素吸収〜(お知らせ) https://www.nies.go.jp/whatsnew/2016/20161201/20161201.html
  3. CONTRAILプロジェクト:日本航空が運航する旅客機にCO2濃度連続測定装置と自動大気サンプリング装置を搭載して上空における温室効果ガスの分布や時間変動を高頻度・広範囲で観測するプロジェクト。完全自動化された連続測定装置を使ったCO2濃度の観測は世界で初めての取り組み。このプロジェクトは国立環境研究所、気象研究所、日本航空株式会社、株式会社ジャムコ、JAL財団が共同で実施している。
    CONTRAILプロジェクトのウェブサイト(英語): http://www.cger.nies.go.jp/contrail/
    日本航空によるCONTRAILプロジェクトの紹介(日本語): http://www.jal.com/ja/csr/environment/social/detail01.html
  4. 日中の地表面加熱により形成される地表面付近の大気層で、地表フラックスの伝搬が比較的速やかに起こる。

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