環境研究総合推進費の研究紹介28 アジアのブラックカーボン排出量を正しく推計する 環境研究総合推進費2-1803「ブラックカーボンおよびメタンの人為起源排出量推計の精緻化と削減感度に関する研究」
1. はじめに
近年、ブラックカーボン (BC)、メタン (CH4)、対流圏オゾンなど、大気中寿命が短い大気汚染物質のうち温室効果をもつものを「短寿命気候汚染物質」(Short-lived Climate Pollutants: SLCP 谷本浩志ほか「地球環境豆知識31: SLCP」地球環境研究センターニュース2014年11月号参照)と呼んでいます。SLCP排出量の削減は、短期的な(10~30年)温暖化抑制効果や、北極やヒマラヤなどでの気候変化を食い止める効果が期待されており、国際的な議論や対応が行われています。
SLCPに似た言葉で、「短寿命気候強制因子」(Short-lived Climate Forcers: SLCF)があります。SLCPは放射強制力が正の物質のみを指し、SLCFは放射強制力が正負両方の物質を含み、より広義なので、最近ではSLCFが使われることが多くなっています。特に、現在執筆が進んでいるIPCC AR6(第6次評価報告書)では、SLCFが単独のチャプター「Short-lived Climate Forcers」として初めて取り上げられ、その重要性への認識がますます高まっています。
2018年に開催されたIPCC専門家会合では、SLCFインベントリの方法論が議論され、今後、国別GHG排出量推計に加えて、国別SLCF排出量推計も始まる見通しです。しかし、SLCFの排出量推計手法はまだ確立されておらず、SLCFの収支や気候影響には依然として大きな不確実性が残っているため、効果的な削減対策を講じるためには、排出量や気候・環境影響に関する科学的知見の充実が求められています。
2. アジアのBCとCH4に注目する
本研究では、SLCFのうちBCとCH4に、また、地域的にはアジアに注目しています。排出インベントリ、化学輸送モデル、観測(地上、衛星)といったツールを用いて、アジア排出源の推計の精緻化や環境・気候影響に関する科学的知見を進展させるとともに、環境経済学の視点から削減感度の評価を行い、社会経済的な分析を行っています。
具体的には、BC やCH4の地上観測を強化するとともに、2017年秋に打ち上がった最新の衛星であるTROPOMI(Tropospheric Monitoring Instrument)のデータを活用し、これまで独自に開発してきた発生源の種別と様々な地域ごとに排出される物質の濃度をそれぞれ区別して計算する「タグ付きトレーサー法」を用いた全球化学輸送モデル(Ikeda et al., 2017, 2021)やデータ同化モデルを発展させ、我が国を含むアジア起源の排出量を推計・検証しています。さらに、政策貢献として、排出に伴う社会経済的な側面の分析を加味し、温暖化を緩和するための合理的な削減パス策定に資する情報をまとめる予定です。
3. 排出量の推計値はどのくらい正しいか?
BCの気候影響や北極域への輸送プロセスを調べるために、世界中の研究者がグローバル大気化学輸送モデルを用いてBCの変動を再現し、気候影響を正確に評価しようと試みていますが、今はまだ濃度レベルや季節的な変化といった基本的なことさえうまく再現できない状況にあります。化学輸送モデルの国際相互比較実験では、北極域でBC濃度の季節変化が再現できていないモデルが多く、モデル間の差異も大きいことが報告されました。この要因はいくつかありますが、その一つが、BCの排出量データ(排出インベントリ)の不確実性です。
そこで、現在使われているBCの排出インベントリの不確実性を評価するため、全球インベントリ5つとアジア領域インベントリ1つについて、BC排出量を地域別に比較しました(表1)。
インベントリ | 対象期間 | 解像度 | 領域 | 成分 | 参照文献 | 関連プロジェクト |
---|---|---|---|---|---|---|
REASv2.1 | 2000-2008 | 0.25° | アジア | CO2, CH4, N2O, CO, NOx, NMVOCs, SO2, BC, OC, NH3, PM2.5, PM10, TPM | Kurokawa et al. (2013) | |
HTAPv2 | 2008, 2010 | 0.1° | 全球 | CO, NOx, NMVOCs, SO2, BC, OC, NH3, PM2.5, PM10 | Janssens-Maenhout et al. (2015) | TF HTAP |
EDGARv4.3.2 | 1970-2012 | 0.1° | 全球 | CO2, CH4, CO, NOx, NMVOCs, SO2, BC, OC, NH3, PM10 | Crippa et al. (2018) | |
MACCity | 1960-2020 | 0.5° | 全球 | CO, NOx, NMVOCs, SO2, BC, OC, NH3 | Granier et al. (2011) | ACCMIP, IPCC AR5 |
CEDS | 1750-2014 | 0.5° | 全球 | CO2, CH4, CO, NOx, NMVOCs, SO2, BC, OC, NH3 | Hoesly et al. (2018) | AerChemMIP, IPCC AR6 |
ECLIPSEv5a | 1990-2050 | 0.5° | 全球 | CH4, CO, NOx, NMVOCs, SO2, BC, OC, NH3, PM2.5 PM10 | Klimont et al. (2017) | AMAP |
中国北部の年間BC総排出量は、0.64~1.19Tg/年と見積もられており、最大値のインベントリ(ECLIPSEv5a)と最小値(EDGARv4.3.2)には1.9倍の差がありました。また、中国南部で最大のBC排出量を示すCEDSでは、最も少ないEDGARv4.3.2と比較して1.8倍も多く見積もられています。中国においてBC排出量が最も大きい部門はインベントリによって異なっており、家庭部門が最大発生源であるインベントリ(ECLIPSEv5a、HTAP2)と、産業・エネルギー部門が家庭部門を上回り最大であるインベントリ(MACCity、EDGARv4.3.2)、両部門の排出量が同程度のインベントリ(REASv2.1、CEDS)が存在することがわかりました。
日本と朝鮮半島のBC総排出量は、それぞれ0.018~0.072 Tg/年、0.025~0.13 Tg/年と見積もられ、排出量は中国と比べて大幅に小さいもののインベントリ間の差は日本で約4倍、朝鮮半島で約5倍に達していることがわかりました。日本においては、REASv2.1のように輸送部門の寄与が8割を超え大半を占めるインベントリがある一方、EDGARv4.3.2やECLIPSv5a、CEDSは産業・エネルギー部門も38-49%と重要な寄与を持っており、インベントリによって内訳に大きな差異を示しました。朝鮮半島における主要なBC発生源は、輸送部門と産業・エネルギー部門でしたが、同様にインベントリによって、各セクターの排出量の差異が大きいこともわかりました。
4. 観測から排出量を検証する
排出量インベントリの確からしさを検証するには、実際の大気観測データを利用します。
BCに関する東アジアの国別ボトムアップ排出インベントリを検証するため、大気観測データを用いた「トップダウン」推計を行いました。具体的には、BCと同様に化石燃料燃焼の不完全燃焼等によって大気中に排出される一酸化炭素(CO)の排出量推計値を基準とし、観測から得られた「BC/CO比」を掛けることによりBC排出量を推計しました。
その際、COの排出量推計値には衛星データ同化から得られた値を用い、BC/CO排出比の推定には、長崎県・福江島(32.75 °N, 128.68 °E)の観測に加え、能登(37.5 °N, 137.4 °E)、福岡(33.52 °N, 130.47 °E)、Gosan(韓国, 126.17°E, 33.28 °N)、Baengnyeong(韓国, 124.63 °E, 37.97 °N)の4地点の観測データを使用しました。
こうして求められたBCの各国排出量推計値(2010~16年平均)は次のようでした。日本のBC排出量0.0378±0.0119Tg/年は、2010年以降0.02~0.03Tg/年の範囲に入るREASver2.1, JEI-DB(=MIX), EDGAR4.3.2, 環境省がCCAC(SLCP削減のための気候変動と大気汚染防止の国際パートナーシップ)及び北極評議会に提出した値(MOE_AC)、ECLIPSEv5aより高い値となりました。一方、CMIP6(第6期結合モデル相互比較プロジェクト)用のインベントリCEDSでは0.06Tg/年程度であり本研究の値より高かったことがわかりました。本研究による中国のBC排出量1.098±0.228 Tg/年は、これまでのいずれのボトムアップ推計値より低い特徴があります。とくにECLIPSEv5aで50%程度、CEDSで2倍程度過大評価となっており、社会経済分析でも考慮する必要があると考えられました。
これとは別に、数値モデルシミュレーションWRF/CMAQにおいて、福江における非降水時のBC濃度を再現するように中国のBC排出量を決定した場合は、1.36 ±0.37Tg/年(2010~16年平均)となり、不確かさの範囲で一致しました(Kanaya et al., 2020, Choi et al., 2020a)。また、この方法によって、2009~19年の期間に中国でのBC排出量が約4割もの大幅な減少を遂げたことを突き止め、IPCC第7次評価サイクルにおいてBCの気候影響をより高い精度で見積もる際に有効な知見を得ました。中国でのボトムアップインベントリの不確かさは、最新の報告でもBCで±200%程度に上ると見積もられていましたが、本研究では±27%まで絞りこむことができたことも大きな成果です。
なお、BCは雲降水過程により除去されるため、大気中濃度の変動がいつも排出の変動に対応するとは限りません。そのため、上記の排出量見積の際には、この湿性除去の影響が風上で無視できる観測データのみを利用し、濃度と排出量とを結びつけて評価しました。一方、本課題では、数値モデルシミュレーションで湿性除去効率を1桁も過小評価している場合を見出しており(Choi et al., 2020b)、降水の影響が大きく表れる、アジアから北極域へのBCの長距離輸送効率の評価を適切なものにしてゆくことは今後の課題です。
5. 社会経済分析から排出削減策につなげる
日本、韓国、中国について、BC及びCH4の排出削減にかかるコストについて、MAC(限界削減費用)曲線を導出することで、排出削減のポテンシャルについて分析を行っています。
MAC曲線は、現状での排出状況から追加的に排出削減を行う場合に発生する費用を、排出削減量ごとに推計したものです。導出には、上述の排出インベントリECLIPSEをベースに用いていますが、いくつかの部門からの排出については、必ずしも各国の現状を反映しきれていない部分もあるため、実際のデータを用いながら独自集計も行っています。
一例として、図3は日韓中のCH4排出に関するMAC曲線を示します。日本及び韓国については、主要なCH4排出源の一つである廃棄物処理分野において独自推計を行っています。人口規模の大きさや近年の経済発展もあり、中国における排出削減ポテンシャルが非常に大きくなっていますが、日韓中のどの国においても比較的低コストで排出量を削減できる余地がまだ残っています。たとえば日本では35ktほどまでは負のコストで(すなわち運営費用の削減やエネルギー回収などにより正味の利益をもたらす)、50ktほど削減した状態からの追加的削減は1tあたり10万円ほどで実行可能です。現在の世界的な炭素税の議論及びCH4の比較的高い温暖化効果(地球温暖化係数)を踏まえると、CH4削減1tあたり35万円(CO2換算1tあたり1.4万円)ほどまでは社会的に許容可能な費用水準ではないかと思われます。
こうした策が現状においてまだ実施されていないことは、制度面で実施が妨げられている可能性を示唆します。また初期費用は大きいがランニングコストの小さい削減策などは、財政手段の制約も問題点となっている可能性があります。
費用面の分析と並行して、排出削減の便益に関する研究も進めています。BCはPM2.5の構成物質でもあり、温暖化対策としてだけではなく大気汚染対策としても排出削減の便益があると考えられます。そのような便益には、健康被害の軽減のような直接的な便益に加えて、そのことを通して二次的に経済活動に対して与える便益(いわゆるコベネフィット)もある可能性があります。しかし実際にどの程度の便益があるのか、とくに経済活動への影響については、まだ知見が不足しています。
そこで本研究ではPM2.5による健康被害を通して、大気汚染がどの程度労働供給に影響を与えているのか、そしてそれがどの程度企業の生産活動に影響を与えているのかについて、日本の統計データを用いつつ、固定効果モデルや操作変数法などの計量経済学の手法を用いて分析しています。それを通し、PM2.5の排出削減が労働供給の上昇や生産活動の向上につながる可能性を、定量的に評価していく予定です。
6. まとめ
本研究では、我が国を含む東アジア各国の国別BC排出量をトップダウン推計し、社会経済情報にもとづくボトムアップ推計値を独立に評価する知見を得ました。これにより、国別BC排出量の値を評価する独立な視点を得るとともに、今後のボトムアップ値改訂の指針となる知見を提供しました。北極評議会では、排出量を報告したオブザーバー国は、非北極圏国であっても北極圏国(カナダ、デンマーク、フィンランド、アイスランド、ノルウェー、ロシア、スウェーデン、米国の8カ国)と対等な地位でExpert Groupに参加して今後の対策につき議論に参加することができるため、本研究により精度を高めた排出量値を得たことが、北極評議会における日本の関与をより強めることにも結び付くと考えています。
また、IPCCのインベントリタスクフォース(IPCC-TFI)によるインベントリ方法論の検討の対象に、BC等のSLCFを今後含めてゆく方向性が打ち出されていますが、SLCFの中でもとりわけ排出量算定に伴う不確かさが大きいとされるBCについて、その不確かさを軽減させるための先進的な科学的知見を今回得たことは、IPCCにおけるBCのインベントリ方法論の議論や実践において我が国がリーダーシップを発揮するための好材料となると考えられます。
国内政策の面でも、日本国内でのBC及びCH4の削減ポテンシャルに関する費用及び便益を明らかにすることで、削減策導入に関するマクロ経済上の根拠を提示し、環境政策の議論に貢献することができると考えています。また、東アジア、特に日本の大気環境に大きな影響を与える中国及び韓国におけるBC及びCH4の削減ポテンシャルと削減策の経済的な観点からの実現可能性を定量的に明らかにすることにより、三国間あるいは北極協議会やIPCCなど国際的枠組みでの我が国の取り組みに貢献することも可能です。
本研究は、環境省・環境研究総合推進費「ブラックカーボンおよびメタンの人為起源排出量推計の精緻化と削減感度に関する研究」(2-1803)および、低炭素研究プログラムPJ1「マルチスケールGHG変動評価システム構築と緩和策評価に関する研究」の一環として実施されました。
*「環境研究総合推進費の研究紹介」は地球環境研究センターウェブサイトにまとめて掲載しています。