2015年2月号 [Vol.25 No.11] 通巻第291号 201502_291004
オゾン層破壊をもたらす大気中の塩化水素が北半球で近年増加 —原因は短期的な大気循環の変動—
1. 背景
南極でオゾンホールが発見されて以降、多くの研究により活性塩素[1]がオゾン層破壊の主原因であることがわかってきました。塩素は主にフロンなどの人工化合物として大気中に放出され、成層圏に運ばれると紫外線等により分解し活性塩素となります。しかし、通常はすぐに比較的安定な塩化水素(HCl)や硝酸塩素(ClONO2)となるため、大規模なオゾン破壊は起こりません。南極や北極の春先にはいくつかの特殊な条件が揃うことでHClやClONO2から活性塩素への変換が起こり、大規模なオゾン破壊が発生します。このように、今回観測したHClそれ自体はオゾンとは反応しませんが、活性塩素の元になる成分ですのでオゾン破壊の上限を決める重要な成分です。
モントリオール議定書に始まる国際的な取り組みにより、フロン等の生産・排出が規制されてきました。これにより、オゾンを破壊する元となる大気中の塩素の総量は、対流圏では1993年をピークに減少に転じたことが報告されています(図3a青線参照)。成層圏でも、数年遅れて1990年代後半から減少に転じていました。
2. 国際観測ネットワーク(NDACC-FTIR)の活用
今回の研究では、大気成分の長期モニタリングのための国際的な観測ネットワークNDACC(Network for the Detection of Atmospheric Composition Change: 大気成分変動観測ネットワーク)に属する観測サイトでフーリエ変換型赤外分光計(FTIR)[2]を用いた観測を行っているグループの中から、世界各地の8地点における観測データを用いて解析を行いました。各観測地点の位置を図1に示します。オゾン層破壊のような地球規模の大気環境問題の研究には、このような国際的観測ネットワークの協力が非常に有効です。国立環境研究所と東北大学は、つくばの国立環境研究所内にFTIRを設置し1998年から観測を継続しており、NDACCにも当初から参加しています。FTIRを用いて太陽光に含まれる赤外線を観測することにより、上空のオゾンやHClなどさまざまな大気成分の濃度を地上から測定することが出来ます。今回、我々は日本の研究チームとして研究グループに参加し、北半球中緯度の代表的観測拠点としてつくばの観測データを用いてHClについての解析を行い、その結果を提供しました。
3. 北半球下部成層圏で観測されたHClの増加
まず、つくばで観測されたHClカラム全量[3]の経年変化を図2に示します。観測されているのは高度方向に積算した値ですが、HClの場合は対流圏では少なく成層圏に多く分布する成分ですので、主に成層圏での変動を反映していると考えることができます。これを見ると、季節変動や日々変動もあるので少しわかりにくいものの、2000年代に入って減少傾向を見せていたものが2007年頃から増加に転じていることがわかります。

図2つくばのFTIRで観測されたHClカラム全量の経年変化。青点が観測日毎の日平均値、赤線は1998年から2006年までの観測データに直線+正弦曲線でフィッティングしたもの、緑線は同じく2007年から2014年の観測データにフィッティングしたもの。
次に、8つのNDACC-FTIR観測地点のうちの3地点でのHCl濃度の経年変化を示したのが図3です。上側の図 (a) はつくばと同じく北半球中緯度にあるユングフラウヨッホ(スイス)で観測されたHClカラム全量の経年変化(赤線、縦軸の数値は左側)で、下側の図は1997–2011年について、北半球高緯度のニーオルスン(ノルウェイ)(b)、aと同じユングフラウヨッホ (c)、南半球中緯度のローダー(ニュージーランド)(d) のHClカラム全量の経年変化を示したものです。図中にはあとで説明するシミュレーション結果等も表示されていますが、ここではまず赤線のみを見ると、南半球では継続的な減少傾向が見られるのに対し、北半球の2地点では2007年以降に上昇傾向が見られるのがわかります。

図3大気中のHClカラム全量の経年変化。図aはユングフラウヨッホ(スイス)で観測されたHClカラム全量の経年変化(赤線、3年間の移動平均をかけた値を1ヶ月毎に表示、縦軸の数値は左側)と、全球平均の対流圏総塩素濃度(青線、縦軸の数値は右側)。下側の図は同じく移動平均をかけたHClカラム全量の経年変化(1997–2011年)で、図bがニーオルスン(ノルウェイ)、図cがユングフラウヨッホ、図dがローダー(ニュージーランド)での値。それぞれ赤線はNDACC-FTIR観測、緑線はSLIMCAT標準計算、黄緑線はSLIMCATのS2000計算の結果。細い赤線は観測値に対する標準偏差の2倍で定義した誤差範囲。カラム全量の最低値は、北半球では波線で示す2007年7月に観測されている。 [Mahieu et al./Nature][クリックで拡大]
この傾向を定量化するために、8つの観測地点全てについて1997–2007年と2007–2011年の2つの期間におけるHClの年変化率を求めたものが図4です。ここでもまずは赤色で示したNDACC-FTIR観測の結果のみを見ると、1997–2007年の期間 (a) では北半球の全ての観測地点で−0.7〜−1.5%/年の有意な減少傾向が見られ、南半球の2地点では有意な変動は見られません。一方、2007–2011年の期間 (b) では北半球の全ての観測地点で1.1〜3.4%/年の増加傾向が見られ、南半球の2地点では減少または有意でない減少傾向が見られました。

図48つのNDACC観測地点におけるHClの変化率。図aは1997–2007年の期間(チューレ(グリーンランド)とイザーニャ(スペイン)については1999–2007年、つくばについては1998–2007年)における年変化率(%/年)。図bは2007–2011年の期間における年変化率。年変化率はFTIRおよびGOZCARDS(人工衛星)観測データ、ふたつのSLIMCAT計算結果から導出。エラーバーは標準偏差の2倍で定義した誤差範囲を示す。 [Mahieu et al./Nature][クリックで拡大]
図4にはGOZCARDS[4]という3つの衛星観測を組み合わせたデータの解析結果も示されていますが(オレンジ色)、衛星観測からも2007–2011年の北半球での増加が裏付けられ、また高度毎のデータから北半球の下部成層圏でのみHClの増加が起こったことがはっきりしました。
4. 3次元化学輸送モデルを用いたHCl増加原因の特定
今回観測されたHCl増加の原因を特定するためにSLIMCAT[5]とKASIMA[6]というふたつの3次元化学輸送モデル[7]を用いたシミュレーションを行いました。両モデルとも塩素化合物他の大気中への放出は世界気象機関(WMO)のA1シナリオ[8]を使用し、風速・気温のデータは、ヨーロッパ中期気象予報センター(ECMWF)のERA-Interimという観測に基づくデータベースを使用しています(本稿ではSLIMCATの結果のみ示していますが、発表論文の追加の図にKASIMAの結果も示されています)。大気循環の影響を調べるために、SLIMCATでは上記のERA-Interimを用いた計算(SLIMCAT標準計算)の他に2000年以降の風速・気温を2000年の風速・気温に固定した計算(SLIMCATS2000計算)も行いました。図3のb-dにはSLIMCATの結果も表示されています。3つの観測地点とも、黄緑線で示したSLIMCATS2000計算では2000年以降全体に減少傾向が続くのに対し、緑で示したSLIMCAT標準計算では観測された変動がよく再現されています。図4にはこれらのシミュレーションによるHClの年変化率も示されています。1997–2007年の期間ではどちらの計算も全ての観測点でHClの減少を示しており観測とも誤差範囲で一致しています。2007–2011年の期間についてはSLIMCAT標準計算ではニーオルスンからつくばまでの観測地点では増加、南半球の2地点では減少、低緯度のイザーニャ(スペイン)では有意な変化なしとなりました。SLIMCATS2000計算では減少から増加への反転は見られず、全ての観測点で減少を示しました。
WMO-A1シナリオを用いたSLIMCAT標準計算が観測とよく一致したことは、塩素化合物の放出量やHClへと変化する化学反応過程がほぼ正しく理解されていることを示しています。SLIMCATのふたつの計算の違いは2000年以降の気象場のみですので、近年の北半球でのHClの増加は大気の循環の変化によると結論づけることが出来ます。そこで、どのような変化が起きたのかをSLIMCAT標準計算から空気塊年代[9]を求めて調べてみると、北半球の下部成層圏では2005/2006年以降に循環が遅くなり、空気塊が古くなった分だけ塩素化合物のHClへの変換が進んでいることがわかりました。ただし、今回観測された北半球の循環の減速は数年程度の短期的な変動と考えられ、大気循環場の長期的な変化を意味するものではありません。
5. オゾン層回復との関連
今回、北半球における2007年以降のHClの増加が観測されましたが、その原因は大気循環の短期的な変化であることがわかりました。また、今回用いた8地点のNDACC-FTIR観測全体を総合すると1997–2011年の期間におけるHCl の減少率は0.5%/年で、これは対流圏の塩素量の減少率(0.5–1%/年)とほぼ一致しています。このことから、モントリオール議定書に始まるフロン類の排出規制は問題なく機能しており、成層圏の塩素量を削減する効果を上げていると言えます。ただし、今回示したように、大気循環の数年程度の変動はHClやその他の大気成分に予測できない変動をもたらす可能性があります。そのため今後のオゾン層回復を調べる際には、このような変動を十分に考慮する必要があると言えるでしょう。更に、このために必要な地上等からの観測も、今後も引き続き行っていく必要があります。
脚注
- 塩素原子(Cl)や一酸化塩素(ClO)など、塩素化合物の中で反応性が高く直接オゾン破壊に関わる成分を指す。
- 光の干渉の原理を利用した分光観測装置。この分光計を用いて太陽赤外光を観測することで、地上からさまざまな大気成分の濃度の情報を得られる。なお、FTIRは英語名Fourier-Transform InfraRed Spectrometerの略。(測定原理については、森野勇「長期観測を支える主人公—測器と観測法の紹介— [7] なぜ鏡は動くのか? フーリエ変換赤外分光計(FTIR)—測定原理」地球環境研究センターニュース2013年11月号を参照。)
- 地表面から上空までのカラム(鉛直の柱)中に存在する対象大気成分の総量。通常底面1cm2のカラム中の分子数で表す。
- Global OZone Chemistry And Related Datasets for the Stratosphereの略。’90年代から現在にかけてオゾン破壊に関わる大気成分のいくつかを観測した、観測手法や観測期間の異なる3つの衛星観測(HALOE, ACE, Aura/MLS)のデータを合わせて長期間のデータセットにしたもの。
- 英国Leeds大学が中心となり開発された化学輸送モデル。
- ドイツ・カールスルーエ研究所が中心となり開発された化学輸送モデル。
- オゾンなどの大気微量成分の空間分布と時間変動を再現するために、大気中で生じる化学反応による生成・消滅や風による輸送の効果を取り入れた計算モデルのこと。
- 観測事実や実験データに基づいて各大気成分の排出量を年ごとに推定したもの。
- ある場所の空気が地表付近からそこに到達するまでにどのくらいの時間が経ったかを示す指標
本研究結果は、2014年11月6日付けで英国科学雑誌「Nature」に掲載されました。
- 発表論文
- E. Mahieu, M. P. Chipperfield, J. Notholt, T. Reddmann, J. Anderson, P. F. Bernath, T. Blumenstock, M. T. Coffey, S. Dhomse, W. Feng, B. Franco, L. Froidevaux, D. W. T. Griffith, J. Hannigan, F. Hase, R. Hossaini, N. B. Jones, I. Morino, I. Murata, H. Nakajima, M. Palm, C. Paton-Walsh, J. M. Russell III, M. Schneider, C. Servais, D. Smale, and K. A. Walker: Recent Northern Hemisphere stratospheric HCl increase due to atmospheric circulation changes, Nature, Vol. 515, 104-107, doi:10.1038/nature13857, 2014.
- 報道発表
- http://www.nies.go.jp/whatsnew/2014/20141106/20141106.html