最新の研究成果 超高精度の「ガス希釈システム」の開発 -大気中の硫化カルボニルを正確に計測する-
はじめに
みなさんも小・中学生の時に“食塩水の問題”を授業で解いた経験があると思います。食塩水の濃度は水と食塩の重さから計算できることを我々は学校で習いました。では、実際に実験で食塩水を希釈して、結果として得られた食塩水の濃度を調べた時に、何度繰り返しても計算通りの結果にならない場合、みなさんならどうするでしょうか?今回ご紹介する研究成果は、世界で初めて大気中の硫化カルボニル(COS)というガス成分の濃度を、正確に希釈して調製する方法についてです。
大気中の硫化カルボニルについて
COSは清浄大気中で約500 pmol/mol (1 pmol/molは1兆分の1 mol)の濃度(正確にはモル分率)で存在する微量気体です。二酸化炭素(CO2)の濃度は大気中で約420 μmol/mol(1 μmol/molは百万分の1 mol)なので、COSの濃度はCO2の100万分の1程度に過ぎません。ところが、近年ではこの極低濃度のCOSが陸域生態系での光合成によるCO2の吸収量を推定するための新たな指標(トレーサー)として注目されています。
大気中のCO2は人間活動から主に放出されますが、大気と陸域生態系、海洋、そして土壌との間で交換が行われています。このため、陸域生態系による光合成吸収量のみを推定することが困難です。これに対し、COSは主に海洋表層から大気中に放出され、光合成によって除去されます。光合成によるCO2とCOSの吸収速度の比は実験等から特徴化できるので、大気中におけるCOSの変動量を精密に観測し、その変動量を光合成と関連付けることにより、COSからCO2の光合成吸収量を推定することができるようになります。
硫化カルボニルの定量と標準ガス
大気中COSの観測報告例はそれほど多くありません。これは、大気中濃度が低いCOSの高精度計測が難しいということもありますが、COSが保存性に乏しいことも原因に挙げられます。例えば、ガス分析では分析機器の校正に濃度既知のガスを調製して高圧シリンダーに充填した標準ガス†を必要とします。一般に、分析機器による分析対象ガス成分の計測では、その対象ガスを測定して得られる信号強度が濃度に比例することを利用します。端的に言えば、分析対象としたガス成分の測定で得られた信号強度が、濃度のわかっているガス成分を含む標準ガスの分析で得られる信号強度に対してどれだけ強いか、あるいは弱いか(何倍に相当するか)で濃度を算出します。ところが、COSは高圧シリンダー中で時間の経過と共に濃度が変化してしまいます(図1)。そして、COSの標準ガスを安定に保存できる手法は、これまでのところ報告されていません。従って、この問題を解決しないかぎり、分析機器を用いて長期にわたって正確にCOSを定量することが困難な状態であり、我々がCOSの研究を始めるためには、まず標準ガスを自分たちで確立するところから始めなければならなかったのです。
求められる標準ガスの条件
COSの標準ガスには上述の安定性以外にも、調製したCOS濃度が高度に正確であることが絶対条件です。加えて、標準ガスに含まれるCOSの濃度は、できる限り実際の大気中におけるCOSの存在濃度に近い濃度である必要があります。これは、測定するガス成分の濃度と大きく異なる濃度を持つ標準ガスを測定において参照した場合、分析誤差が大きくなってしまうためです(要因は多々ありますが、分析機器の線形性に主に依存します)。しかしながら、100%の純度を持つCOSを薄めて、大気中での存在濃度がCO2の100万分の1程度に過ぎない、約500 pmol/molまで薄めるためには、何度も繰り返し希釈作業をしなくてはなりません。どんな手法を用いて希釈しても、希釈作業を実施するたびに、どうしても希釈誤差が発生してしまいます。それゆえ、希釈作業を繰り返すことは最終的に大きな不確かさが蓄積されることになります。CO2については安定かつ正確な標準ガスを世界の計量機関等を通じて入手することができますが、CO2に対してはるかに濃度が低いCOSについては、CO2と同じ方法で希釈しても、希釈誤差の蓄積により、調製したCOS濃度の確らしさを確保することが困難なものとなります。では、できるかぎり不確かさの蓄積増大を防ぎつつ、COSの標準ガスを調製するにはどうしたらよいのでしょうか。
硫化カルボニルの標準ガスの調製方法の検討
今日では、精密な天秤を用いた重量測定に基づく標準ガス調製方法(質量比混合法)が最も信頼性が高く、かつ正確な方法として採用されていて、その技術は成熟しています。しかしながら、この方法は調製に時間が必要とされ、調製したガスをシリンダー等に充填保存する必要があります。加えて、COSは金属等の表面への吸着傾向が強いこともあり、充填先のシリンダーへの吸着による損失を考えれば、質量比混合法でも計算通りの濃度を持つCOSの標準ガスを調製することは簡単ではありません。
我々は、この問題を解決するために、質量比混合法に代わるガスの希釈・調製方法として、流量比混合法によるアプローチを採用しました。流量比混合法は、原料ガスと希釈ガスの2種類のガスを流量比に基づいて希釈混合する方法であり、即座に標準ガスを連続的に発生させることができます。この方法であれば、発生させたCOS標準ガスを分析装置に直接導入できるので、保存する必要が無い上、吸着の影響についても低減できると期待できます。
流量比混合法の確立にむけて
我々は手探りでゼロから流量比混合法による手法の構築に着手する必要がありました。というのも、流量比混合法で、高純度のCOSを環境大気レベルであるピコモル(1兆分の1モル)オーダーに希釈発生する方法の報告例はこれまでにもちろん無い上、COS以外であっても報告例は極めて少なかったからです。ですが、実のところ、我々にはある程度の勝算がありました。
これまでの経験から、我々はCOSが環境大気中で存在するよりも遥かに高い濃度でシリンダーに保存した場合には、COSに有意な濃度変化が起こっていない可能性があることを経験的に知っていました。そこで、過去に5 μmol/molの濃度で質量比混合法によって調製した複数のCOS標準ガスの保存時の長期安定性を定量的に調べました。この結果、10年以上に渡ってCOSは安定に保存されていたと判断することができました。
このような高濃度でのCOSの調製では、質量比混合法における問題点の一つであった、シリンダー内部での金属表面への吸着による損失を、相対的に無視できる規模にすることができます。また、上述の通り調製後も安定であることが確認できたので、我々は十分に信頼できる正確な希釈原料ガスを確立することができたと言えます。この原料ガスの確立により、我々の採用した流量比混合法による標準ガスの調製において、希釈比率を数千倍程度と比較的低い倍率に抑えることが可能になります(100%の純COSを希釈する場合、数十億倍の希釈が必要!)。数千倍程度であれば、一度の希釈作業で、目的とする濃度を持つCOSの標準ガスを調製できるので、希釈誤差についても低減できると期待できます。
流量比混合法での予期せぬ問題
あとはこの高濃度のCOS標準ガスを正確に希釈することができれば、標準ガスにまつわる問題を解決することができます。我々は、高濃度COSと希釈ガスの流量を、世界で最も正確な流量計で計測しながら混ぜ合わせれば、正確に希釈後の濃度を計算できるはず、と期待して希釈システムを組み上げて実験を開始しました。
実験では希釈発生したガスをガスクロマトグラフ質量分析計(GC/MS)で定量することで、希釈発生したCOS濃度を確認しました。ところが、実験からはGC/MSで定量した希釈発生ガス中のCOSの濃度は、流量計の測定結果から計算される濃度と異なる濃度であることを示す結果が得られました。しかも、何度同じ条件で希釈発生しても、毎回発生したCOS濃度が異なり、条件を色々と変えて実験しても結果に再現性に改善が得られなかったのです。これは当初の計画とは異なる大誤算でした。
希釈システムの開発と改良
我々はこの結果を説明する理由を得るために、焦りを抑えつつも根気強く様々な条件で何度も実験を繰り返しました。実施した実験の結果やその時の条件について注意深く調べていく中で、流量が一定であるにも関わらず、原料ガスの圧力が設定圧の5%未満で変動しており、COSの発生濃度と比例関係があることに気が付きました。そこで、試行錯誤を繰り返して、原料ガスと希釈ガスの圧力差をできる限り小さく(3000 Pa未満)、かつ一定となるように抑えることができる高精度圧力安定化システムを構築しました。
このシステムの導入により、期待を抱いて実験を行いましたが、希釈再現性に改善が見られず、またしても我々は打ちのめされてしまいました。ただ、原料ガス中にCOSとほぼ同じ濃度となるように添加していた代替フロンであるクロロジフルオロメタン(HCFC-22)については希釈発生において高い再現性が得られるようになりました。吸着による影響を考えなくても良いHCFC-22で希釈がうまく行くわけですから、原因はCOSの物性、特に吸着に起因している可能性が高いと我々は考えました。
そこで、組み上げた希釈発生システム内でのCOSの吸着と脱着が十分に平衡状態となるように、思い切って希釈ガスの発生を開始して30分以上待ってからGC/MSによる測定を実施しました。繰り返し希釈発生ガスを計測しましたが、GC/MSによる測定結果は、高精度流量計で計測した原料ガスと希釈ガスの流量から計算されるCOSの発生濃度と測定誤差の範囲で一致する結果を示していました。同じ条件においてではありますが、遂に我々はCOSの希釈発生に再現性を得ることができるようになりました(図2)。
さらに、我々は日をおいて実験するのに加え、COSの発生濃度を変えて実験を繰り返しましたが、全ての実験においてGC/MSによる測定結果と流量から計算されるCOSの発生濃度との間に良い一致が得られることを確認できました。度重なる希釈システムの改善を経てここに至りましたが、ようやくここでシステム開発が完了したのだと安堵することができました。
開発した希釈システムの有用性
本研究で開発した希釈システム(図3)では、例えば1 μmol/molのCOS標準ガスを原料ガスとして用いた場合、環境大気濃度レベル(400-600 pmol/mol程度)へ0.1%未満の不確かさ(相対標準偏差)で希釈発生できると評価できました。これは、年間数pmol/mol程度のCOSの経年変化を検出するのに十分な確度を持ちます。これにより、地球システム領域の維持する大気モニタリングプラットフォームを活用した観測研究を展開することで、領域から半球スケールでのCOSの長期的な変化傾向やその変動要因について解明するための研究の第一歩を踏み出すことがでるようになりました。
ここで、忘れてはいけないのが、本研究で開発したガスの希釈方法は汎用性に富み、COSだけでなくそれ以外のガス種にも適用できることです。あくまで、今日の最も正確な標準ガスの代表的な調製方法は質量比混合法ですが、この方法での調製が適切ではない不安定なガス成分については、本研究で開発した流量比混合法による標準ガスの調製が有効です。本研究は、極論を言えば、ただ気体を混ぜるだけの技術ですが、このような基礎研究による技術開発により、さらなる波及効果も期待できるのです。



†標準ガスについて:
例えば、上皿天秤でおおよそ150 g程度の被測定物の重量を測定する場合、まずは100 gの分銅を載せて、それから50、10、5、そして1 gの分銅を用いて、重さが釣り合うように分銅を調整しながら載せていきます。この被測定物の重量を定量するために比較基準として使用される分銅が、ガス分析における標準ガスに相当します。分銅の場合、国際的(簡易的なものであれば国内で)に認証されているものが用いられますが、100 gの分銅が実は何かしらの事情で80 gだった場合、被測定物の重量は本当の重量よりも重たいもの(この場合、150 gのものが170 g)として定量されてしまいます。従って、標準ガスには高度に正確かつ安定であることが求められます。