RESULT2022年8月号 Vol. 33 No. 5(通巻381号)

最近の研究成果 雪に隔絶された過去の空気を読み解く

  • 梅澤拓(地球システム領域動態化学研究室 主任研究員)

2001年5月、グリーンランド北部。厚さ3,000メートルの氷床の表面から、直径10センチ、深さ100メートルの穴が掘られた。その掘削孔から吸引された空気は、現代の地上では採取できない「過去の空気」である。

極域の氷床上部に降る雪は、年月をかけて自重による圧密を受ける。表層付近の雪は軟らかく、すなわち、積雪層には空隙が存在する。深くなるほどに圧密が進み、ある深さにおいて空隙が閉ざされて、雪は氷へと変わる。この空隙を持つ積雪層を「フィルン(firn)」と呼ぶ。表層付近では、フィルンの空気は空隙を通して大気と混合する。しかし、深さとともに空隙は狭く折れ曲がり、表層大気との隔絶が大きくなる。フィルンでは深くなるほどに「古い空気」が存在するのである。

フィルンの深くから空気を採取すれば、その分析によって過去の大気の組成が復元できるのかというと、実はそれほど単純な話ではない。フィルン内の空気は、非常に緩やかではあるが内部で輸送される。これは、大気成分の濃度勾配に応じた「拡散」と呼ばれる輸送過程である。表層付近では(その当時の)現代大気がフィルンへと取り込まれるが、大気成分の濃度が時間的に変化している場合、フィルン内で深さ方向に濃度勾配が生まれ、拡散を起こす。すなわち、フィルン内の空気の組成は、過去の大気組成の変化とともに、内部での拡散過程にも影響を受けてしまう。

重要な温室効果ガスの一つであるメタンは、産業革命後に大気中の濃度が2倍以上に増え、現在も濃度増加が続いている。食糧生産や化石燃料消費など人為的な放出の増加が主要因であるとは考えられているが、著しい濃度増加が起こったと考えられている20世紀において、どこでどのような放出がどのタイミングで強まったか、を知ることは簡単ではない。その第一歩は20世紀のメタン濃度の変遷を正確に知ることである。特に、放出源の大半が分布する北半球のメタン濃度を知ることが極めて重要である。メタンの大気観測が開始されたのは1980年代であり、20世紀前半の北半球のメタン濃度は観測データの不足や不一致のためよくわかっていない。この手がかりが、過去の大気組成の「名残」をとどめるフィルン空気にある。拡散による影響を受けながらも、フィルンの深さ方向の大気濃度の変化は、実際の大気濃度の歴史を反映しているためである。

本研究では、グリーンランド北部のNGRIP (North Greenland Ice Core Project) サイト(図1内の地図を参照)で採取されたフィルン空気の温室効果ガスやハロカーボン類の濃度を分析し、これら多成分の濃度のフィルン内の深度分布を利用して、20世紀の北半球のメタン濃度の復元を行った。メタン以外の大気成分の濃度も必要なのは、上述のフィルンでの拡散過程を見積もるためである。過去の大気濃度の復元のためには、大気濃度の歴史とフィルン内の大気濃度の深度分布を結び付けるフィルン空気輸送モデルが不可欠である。フィルン空気の輸送過程をモデルで計算するにあたっては、大気成分が多いほど、モデル内の拡散過程に対して強い制約条件を与えることができる。このことは、今回対象としたメタン濃度の復元の正確さを決める重要な役割を果たしている。

図1は本研究で復元された20世紀のメタン濃度の変化を示している。フィルン空気輸送モデルによってフィルンの各深度での「空気の年代」を計算し、NGRIPフィルンの測定データに対して図示したのが赤色の太い横棒であり、メタン濃度の復元結果となる。また、既に公表されているNEEM (North Greenland Eemian Ice Drilling) フィルンのデータも使用して復元を行った(青色の太い横棒)。NGRIPフィルンとNEEMフィルンの復元結果は、過去に遡るほどに不一致が目立つが、両者には重複する範囲があり、2つのフィルンサイトのデータに整合する濃度範囲として理解することができる。この年代の北半球のメタン濃度として、観測にもとづくもっとも信頼できるデータである。

一方、少ないデータを補完するなどして、もっともらしいメタン濃度の変化を合成して関連研究に利用してきた先行研究が存在する。一つがNEEMフィルンのモデリング研究のために作成されたシナリオ(図1の黒色の実線)、もう一つが気候モデルの相互比較実験のために作成されたシナリオ(図1の灰色の実線)である。図1の左上の挿入図を見ると、NEEMモデリングのシナリオのみが20世紀前半のフィルン復元と整合的な濃度範囲(赤線と青線の間)に入ることがわかる。本研究は、これらのシナリオを利用した関連研究に対しても重要な示唆を与えたと言える。

図1 グリーンランドの2つのフィルンサイトNGRIPとNEEMから復元されたメタン濃度(赤と青の太い横棒)。左上の挿入図では、赤と青の太い横棒の端点をつなぐ実線を示した。黒と灰の実線は公表されている二つの合成ヒストリー濃度の変化。黒の点線は、南極の氷床コアによる観測復元のデータを平滑化して得られた南極のメタン濃度の変化。フィルン空気がサンプリングされたNGRIPとNEEMサイトの位置を右下の地図で示した(土地被覆データはGlobCover 2009(http://www.esa-landcover-cci.org)を使用した)。
図1 グリーンランドの2つのフィルンサイトNGRIPとNEEMから復元されたメタン濃度(赤と青の太い横棒)。左上の挿入図では、赤と青の太い横棒の端点をつなぐ実線を示した。黒と灰の実線は公表されている二つの合成ヒストリー濃度の変化。黒の点線は、南極の氷床コアによる観測復元のデータを平滑化して得られた南極のメタン濃度の変化。フィルン空気がサンプリングされたNGRIPとNEEMサイトの位置を右下の地図で示した(土地被覆データはGlobCover 2009(http://www.esa-landcover-cci.org)を使用した)。

本研究の出発点であったNGRIPフィルンの空気試料は、冒頭の通り、20年以上前に採取された。筆者がその一部の分析を始めたのはそのおよそ10年後のことである。初期のデータを解析してウィーンの国際学会で発表し、NGRIP試料を実際にグリーンランドでサンプリングした共同研究者と、ウィーンの日本料理店で当時1歳の長男も一緒に夕食をともにしたことが今では懐かしく思い出される。さらに5年を経て、国立環境研究所に移ったことで協力者が増え、眠っていたNGRIP試料から新たにハロカーボン類の分析も叶った。「眺めているだけで飲める」ほどの美しい分析結果が出揃い、そのデータが本研究を新しいステージに押し上げた。フィルン空気拡散モデルの活用の幅が広がり、フィルンデータにもとづく過去の大気組成復元の性能や限界がより鮮明になったのである。その後さらに数年、共著者や論文の査読者との厳しくも真摯な議論を経て、フィルン研究の醍醐味と難しさを味わうことができた。10年前のウィーンでの発表とは全く違う研究成果として世に送り出されたことも含め、長年の研究に一区切りが付いたことは感慨深い。10年続けてまとめたことを、長男も「すごいね」と褒めてくれた。