2012年8月号 [Vol.23 No.5] 通巻第261号 201208_261005
英国ケンブリッジ大学における派遣研修の体験記
国立環境研究所の若手研究員派遣研修制度により、2011年4月13日から2012年3月31日の11カ月半にわたり、英国ケンブリッジ大学(University of Cambridge)の気候変動緩和研究センター(Cambridge Center for Climate Change Mitigation Research)へ客員研究員として滞在する機会を頂きました。英国ケンブリッジ大学における研究事情や研究生活、研修の意義など体験記を報告したいと思います。
1. ケンブリッジ大学での学問の環境
ケンブリッジは、ロンドンから電車で1時間ほどの場所に位置し、日常生活は徒歩か自転車で事が足りる、とてもコンパクトな「大学の街」でした。研修先のケンブリッジ大学は31のcollegeとその集合体である一つのuniversityにより構成され、collegeはuniversityとは独立した運営で、collegeにも校舎・宿舎・食堂・図書館等の施設が独立してあるのが特徴的です。college別に特色があり、著名人を輩出した歴史ある建築物が残るcollegeには、世界中から多くの観光客が集まり(写真1)、夏季は活気に溢れていました。歴史を感じる街並み、学業に没頭できる充実した施設、街の中心から少し外に出れば、木々や小川や牧草地が広がる自然、その自然の中で時間が止まったようなゆったりとした空間を提供しているカフェ。どれもがケンブリッジの魅力で、いつか機会があるならば、もう一度住んでみたいと思える街でした。毎日、公園の中を通って徒歩通勤していましたが、そこには、牛が放牧され(写真2)、白鳥やカルガモ、リスなどもいて、大学と公園が融合した街というのがケンブリッジの魅力だと思います。
ケンブリッジ大学では、学生・院生は必ずどこかのcollegeに所属し、collegeごとに入学選考が行われ、college入学後に希望するuniversityの学部に配属される、というシステムです。私のような短期間の客員研究員もケンブリッジ大学には多く、所属先がcollegeなのかuniversityなのかは状況によってさまざまであり、どちらの所属かによって設備利用の条件が多少異なってくることを、滞在して初めて知りました。私はuniversityに所属し、他学部の設備であっても、universityの施設は使うことができる環境にありました。
ケンブリッジ大学の特色として、大小さまざまな規模の研究センターが設立されていたのも興味深い研究体制です。私は、Department of Land Economy下の研究機関であるCambridge Centre for Climate Change Mitigation Researchに所属していましたが、そのほか、関連する研究分野ではCentre for Climate Science(学部横断で設置された機関)、Electricity Policy Research Group(Cambridge Judge Business Schoolに所属した機関)、Centre for Sustainable Development(Department of Engineeringに所属した機関)における研究セミナー等の議論に参加する機会が得られました。ケンブリッジ大学で良かったことは、こういった学部・研究センターが開催するセミナーの数が非常に多く、大学のWeb上で全て開催情報が公開され、大学関係者であれば分野横断的に参加可能であるという点です。発表者は、ノーベル賞クラスの外部の教授から博士課程の学生まで多様で、発表内容やその議論の仕方には、私が日本で経験したものとは違う雰囲気がありました。例えば、昼食を自由に食べながらのセミナーであったり、発表の途中で質疑応答が活発に行われたり、教師も学生も隔たりなく議論を交わす場がありました。大学の図書館も大変充実しています。各学部に図書館があるだけでなく、総合図書館には、古くからの数多くの書物が保管されており、建物の雰囲気と書物の量には圧倒されました。ケンブリッジの生活に慣れてきた滞在期間の後半は、できる限りセミナーに参加したり図書館に通ったりして、自分の専門分野以外の事も学ぶ機会が得られました。
2. 気候変動緩和研究センターでの研究生活
私が所属した気候変動緩和研究センターは、IPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change)評価報告書第3作業部会でも長年執筆者を務められてきたDr. Terry BarkerがDepartment of Land Economyの下に設立した研究機関で、現在は、Barker氏と共同研究者によって開発された気候変動緩和策を評価する経済モデル(Energy-Economy-Environment Model Global:略称E3MG)を中心に研究活動が行われています。私は、世界多地域多部門モデルによる気候変動緩和策に関する研究の実施を研修の目的の一つにしていました。私の研究は、彼らが開発する経済モデルとは異なるタイプのものであったため、こちらの研究の紹介をすることで彼らとの交流のあり方を探りつつ、週1回の研究打ち合わせやセミナーの議論に参加させてもらい、同僚の一人が取り組んでいた国際資源経済モデルの議論に参加したりしていました。ただ、滞在半年後には、受け入れ担当になって頂いたBarker氏が退職されることが決まっていたため(その後は週数回ほど通勤)、所長はDouglas Crawford-Brown教授に引き継がれ、経済モデルも若手研究者に引き継がれている最中でした。そのため、研究の議論以外に、どうやって世界で通用する研究を維持するか、いかに研究プロジェクトを持続するか、といったシニアから若手へ知識・経験の移行の過程に参加できました。国立環境研究所で私が所属する研究グループでも同様ですが、世界の最前線で通用するモデル・データを維持した研究を続けるための体制とその難しさについて考えた貴重な機会でした。
派遣研修では、気候変動緩和策による複合的な便益に関する研究の情報収集と今後の研究の種を検討することを研修のもう一つの目的にしていました。私は、今までと同様な気候変動緩和策の研究をこの先5年、10年と続けていくのは新規性があるのか、世の中のニーズに答えられているのか、などとこの数年考え悩んでいたことも、派遣研修を希望した理由です。受け入れ担当者のBarker氏がCO2排出削減と大気汚染物質の排出削減の共便益に関する論文を書かれていたのは研修前に読んでいたのですが、Barker氏だけでなく所長のDouglas Crawford-Brown教授と出会えたことはとても幸運でした。教授は、経済学とは全く別の研究分野の出身で、気候変動緩和策と大気汚染対策や健康影響などの “co-benefit(共便益)” を専門としており、そういったco-benefit評価と経済評価の統合を模索されています。彼が執筆中の本の原稿を読み、意見交換することもできました。気候変動緩和策と大気汚染対策の共便益の評価や、大気汚染と健康影響に関する研究といった、個別の事象に関する既存の研究はありますが、それぞれの事象を体系的に関連付けて全体を評価するために、対策と影響とその効果を統合的に扱った研究が十分ではありません。また、気候変動緩和策とオゾン層保護策の共便益や、オゾン層破壊と健康影響に関する研究といった、個別の事象に関する研究もありますが、ここでも統合的に扱った研究はありません。他にも気候変動緩和策と共便益を生むような事象は探究すればさまざまあると思います。共便益をどうやって評価するのか、共便益がどの程度あるのか、という学術的な好奇心だけでなく、例えば、気候変動緩和策の国際交渉において、共便益も含めた試算結果を示すことが難航する国際交渉の一つの打開策になったりしないだろうか、といった社会のニーズなど、研修先にて考えていました。この分野は複合的に事象を取り扱う必要があり、一人でできる規模の研究ではありませんが、できるところから、社会に役立つ成果物が生み出せるように、研究を継続していきたいと思っています。
3. ケンブリッジ大学以外での課外活動
プロジェクト予算の公募情報から、ロンドンやケンブリッジでのイベント情報など、さまざまな情報がケンブリッジ大学に集まってくるため、大学のWebを通じて関心のある分野のメーリングリストに登録すると、色々な情報が飛び交っているのを読むことができました。さまざまな情報が集まり、世界各国から人材が集まるこの求心力が、ケンブリッジ大学のもう一つの魅力だと思います。例えば、ケンブリッジ大学では周辺企業と共同した研究プロジェクトが色々とあると聞き、メーリングリスト上で見た、温暖化対策技術に関する大学周辺企業のネットワークが主催したイベントを傍聴しに行くこともできました。
他にも、メーリングリスト上で入手した情報を元に、ロンドンでのイベントに数回参加しました。例えば、英国における温暖化対策の議論を聞くために、Carbon Reduction 2011: The Transition to a Low Carbon Economyというイベントに参加しました。ここでは、英国の低炭素社会経済への中長期目標の議論や、EUの政策決定者によるEUの2050年80%削減に向けた議論などがplenary session(全体会議)で紹介され(写真3)、そしてparallel session(分科会)にて複数の居室に分かれて、数名の発表者が研究内容や低炭素社会経済に向けた各自の思いなどを発表していました。parallel sessionでは、このイベントで唯一、対策技術に関する議論ではなく、低炭素社会経済の実現には人々の行動の変化(behaviour change)が不可欠であることを主張した発表がありました(写真4)。どうやって行動の変化を促すのか、経済的インセンティブなのか、環境教育なのか、地域性や風土などの特徴に応じて考えていく必要性を話され、こういったイベントにおいて興味深い内容でした。
4. おわりに
1年間の派遣研修を通じて、海外に行くのは、研究だけでないそれ以外の部分で、現地で何を感じ、そこから何を持ち帰るか、という点に大事な意味があるのではないか、と思いました。英語で苦労するという経験だけでなく、20代の若い時期、30代の中堅の時期、40代以降といった年齢や経験の違いにより、研究以外の部分で現地で感じる何かというのは変わってくると思います。これからも多くの日本人の研究者が短期間でも在外研究する機会が多くあることを切に願います。このような派遣研修の機会を頂いたことに心から感謝し、今後はこの先数年かけて、この派遣研修の経験を活かしていきたいと思います。