2018年5月号 [Vol.29 No.2] 通巻第329号 201805_329001

炭素中立世界を先駆けるブータン

  • (公財)地球環境戦略研究機関 参与 西岡秀三

プロローグ:先代の第4代国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクは問う。財政赤字を補うには我が国の豊富な森林を伐採して売ってはどうか。環境顧問ベンジー・ドルジは進言する。それはなりません。もう少ししたら、我が国の切らないままの森林に金を出すと、世界の国が言ってきます。2008年の新憲法には森林面積を国土の60%以下にはしないと書き込まれた。

写真1森林・水・伝統と文化、そして人が発展の基盤

そろそろ山のあなたに幸せを見つけたくなったのかね、などと冷やかされながら、ブータンに出かけている。国立環境研究所・東京工業大学・地球環境戦略研究機関がブータン研究機関といっしょに、来るべき正味ゼロエミッション(炭素中立)世界の有り様をさぐる共同研究の場をつくった。「雲竜(Dragon)プラットフォーム」と名付けている。と話すと、なぜブータンか、人口80万人、九州程の面積の一小山岳国が出す二酸化炭素は大した量ではない、いくら肩入れしても地球温暖化は止まらないのでは、と問われる。確かにそうである。しかし温暖化問題が突き付けた世界的「転換」のためには、それぞれの国の発展のあり方を変える発想の転換が不可欠であり、その点で「幸せの国」ブータンから学ぶことは極めて大きい。

1. 炭素中立社会からの出発

パリ協定は世界の全ての国が今世紀後半には炭素中立国に変わらねばならないとした。ブータンはいまだ基本的に農業国である。ヒマラヤ氷河から豊富に流れ出る水力による発電が97%の家庭に送られ、余剰分をインドへ売電し国家収入の多くを賄う、電化社会が実現している。学校教育は英語だから、TVから世界情報が飛び込んでくる。購買力平価では国内総生産(GDP)一人9000ドル近くと日本の1980年なみである。今後懸念される自動車からの二酸化炭素排出に対しては電気自動車導入が検討されている。水力に加え豊かな森林からのバイオマスも利用したゼロエミッションエネルギーで生活を営んでいる。その点に関しては、21世紀が目指す炭素中立をすでに実現している国であるだけでなく、他国が排出する二酸化炭素を吸収している国であり、パリ協定の合意に際し今後とも炭素中立を貫く、と首相演説で宣言している。先進国も途上国も今後は自然エネルギー利用の電化社会に向かうことは必至であり、自然資源国ブータンはその先駆である。

2. 懸念される気候変動の自然資源への影響

そうはいっても、その重要な自然資源は気候変動にさらされる。雲竜プラットフォーム第一の仕事は、この水力・森林機能が気候変動下で維持できるかを水文・炭素吸収モデルで確かめることにある。2018年2月の一週間、ブータンの適応策担当者12名が来日し、国立環境研究所の気候変動適応情報プラットフォーム(A-Plat)の協力のもと、肱岡室長、高橋室長、花崎主任研究員、東工大鼎(かなえ)教授、などから影響と適応策の講義をうける研修合宿を行った。そこではやはり降雨・水文変化による水力発電への影響や急峻な山に植えられた森林や土壌の二酸化炭素吸収能力劣化への懸念、なかんずく氷河湖決壊で瞬時に流れ降りる増水が沿岸農地・住宅を襲うことの危惧が熱心に議論された。

ブータンメンバーは研修への「意気込み」が違うし「効率が良く」、「実践的」である。今回の来日では、まず、多くがブータン政府費用での自前研修である。メンバー構成は、環境委員会(環境省相当)の女性リーダーを筆頭に、水文・気象観測センター・森林農業省水文部門・UNDP担当・二つの地方自治体・国家幸福委員会(全政策統括部署)といったすべての関連省庁の気候政策担当者であり、その全員が合宿する集団研修である。聞いてみるとこういう研修の間に各省庁が話し合って、適応計画や削減策を作り上げるというのである。だから真剣度が違うし、講師への質問も具体的で詳細にわたる。

写真2国立環境研究所2018年2月ブータン各省庁適応策政策担当者研修の参加メンバー

3. 炭素中立維持のシナリオは書けるか?

長期に見れば、ブータンも今後のグローバル化の波に乗って多くの新興途上国が辿った資源多消費型経済発展の道を進み、温室効果ガスの排出量が急増するかもしれない。先述の適応研修では、五味主任研究員などシナリオモデル研究者から、もしこのまま何も手を打たなければ2050年には排出国になるが、対策をとれば当分炭素吸収国のままでいられるとする初期的検討結果が示された。するとただちにブータン参加者リーダーから、4月の全省庁気候政策合同会合で発表してくれないかとブータン政府の費用もちでの招聘が五味氏になされた。ブータンの役人はいいと思えば自分の責任で迅速かつ小気味よく物事を決めてくれる。

4. ブータンに学ぶ

こういう科学的政策のために不可欠の共同研究や研修を進める一方で、むしろブータン側から学んでいることがある。

パリ協定の合意が成立した背景には、人類活動が「惑星地球の限界」を越えつつあり、このままだと人類生存は持続可能でなくなるとの見極めがある。「限界」には窒素過剰循環や水資源不足等たくさんあるが、それが明確に定量的に検証されたのが気候変動である。「気候」は全人類が生存を依存し共有する代替物のない最重要の自然資源である。30年にわたる科学の追求で、遅まきながら人為的温室効果ガス(GHG)を出している限り気候変動が続くことが明らかになった。その当然の帰結として人為的GHG排出を今後は一切なしにするしかないし、それはどの国も欠けることなくやらねばならない。危険と目される産業革命以前からの平均気温上昇が2°Cにならないうちにゼロエミッション(炭素中立)世界にしようと諸国が臍(ほぞ)を固めたことを文書にしたのがパリ協定である。今の排出量推移のままだと今後30年のうちに2°Cを超える。転換への時間は一世代分しかない。研究者は転換に向けてシナリオを描き、技術を駆使して何とかGHG排出量を減らし、持続可能な社会を維持しようと策を練っている。しかし、そのフレームにはGDPで示される経済成長を中核に据えた発展パターンへの執着がある。炭素中立社会への大転換にはどうもそのパターンだけでは限界があるように思いながら、もがいているのが現状である。

その点ではブータンに学ぶところが大きい。ブータンでも経済成長を無視しているわけではないが、この山岳国は大量消費型成長ができる基盤もないし、そうなりたいとも思っていないようである。四つの国是の一つは、「持続可能で公平な社会経済発展」である。充足・満足に立脚した安定な社会をつくるための経済であるべきとしている。二つ目が「文化の維持と振興」である。経済的発展は伝統的価値を犠牲にするものであってはならず、国民は生活の中での自国の伝統と文化に誇りをもてと言う。三つ目は「環境の保全と持続的利用」であり、自然があっての国であり生活であるとする。四つ目が「良き統治の推進」であり、民衆参加型の責任ある良い政治が不可欠とする。

5. 目標は国民の幸せ

そしてこれらを政策に落とし込むための評価指標として「国民幸福指標(GNH)」がある。これは実際に予算配分基準として使われているだけでなく、5年に一度の8000人への数時間にわたるDeep Interviewで項目ごとに評価され、施策にフィードバックされている。表に見るように、等価に重み付けされる9大項目は全て上記の四つの国是を踏まえての良き国民の生活と生活環境(Well-being)に関する項目である。どこにも経済成長の項目はない。経済成長はこれらを満足させるための手段にすぎないからである。

ブータン国民総幸福指標の体系 左欄:9指標(等価) 右欄:細項目(幅で重みを示す)

各指標は、さらにいくつかのサブ項目に分かれる。指標3の国民の時間利用(Time Use)では「仕事・睡眠」バランスをあげ、日本での「Work-Lifeバランス」論議を先取りしているし、生活水準(Living Standard)は収入、資産、住居で評価し、公平性を保つ政策に使われる。ちなみに、2015年の国民評価調査では、Sleepは74%、Workは44%の人が充足としている。

2015年に国連で決められたSDGs(持続可能な開発目標)の魁とでもいうべき持続可能社会のあるべき姿を示す多規準指標である。SDGsはいまだ開発段階にあり、またその実施もそれぞれのステークホルダーの任意選択で行われているため、全体としての整合性に懸念がある。それに比べブータンが1970年代から練り上げているGNH体系はすでに一国家の政策決定に統合的に実際に組み込まれ使われている。

先の研修で、五味氏からの長期炭素中立シナリオモデルにGNHをどのように反映するかの問いに、それは任してくれと昼休み中に自主的グループワークが始まり、指標とモデル変数のマトリクスを埋め尽くす施策が午後一番にかえってきた。経済的成長をあえて追わないこの国が、炭素中立社会の姿を最初に示してくれるのではないだろうか。

6. それで「幸せ」って何だろう

『ブータンに魅せられて』(今枝由郎氏:岩波新書)にGNHを発案した第4代国王の言葉が書かれている。やや略して引用すれば、「国として経済発展は必須であるが、それが究極目標ではないのは自明。そこで仏教国としての究極目標として『国民総幸福』を掲げたが、『幸福』は主観的で個人差があるから国の方針とはなりえない。意図したのはむしろ『充足(Contentedness)』である。目的に向かって努力するとき、そしてそれが達成されたときに誰もが感じる充足感をもてることが人間にとって最も大切なこと。私が目標とするところは、国民一人ひとりが、ブータン人として生きることを誇りに思い、自分の人生に充足感をもつことである」となる。タイでも先代のプミポン国王は「充足経済(Sufficiency Economy)」を唱えられていた。そういえば老子の「知足者富(足るを知る者は富む)」もある。アジアの「充足」が炭素中立世界のキーワードなのだろうか。

エピローグ:国立環境研究所が国立公害研究所だった時代の伝説。第3代所長近藤次郎先生が若い研究員たちとの飲み会で、がんばって公害をなくしたら私たちは仕事がなくなりますがどうするのですかと聞かれ、次は環境研究所になるんだよ。それで環境が良くなったらどうしましょうか。言下に、それはきみ、福禄寿研究所になるのさ。

写真3電気は来てるし床に座りこむとくれば、寒い冬にはこれが一番 雲竜プラットフォーム適正技術移転第一号は「炬燵」。ミカンがあれば懐かしい日本の団欒。

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