2026年1月発行

大分県立国東高校キャリア講演会 「自己理解を深め、将来のライフプランを考えよう」

研究者のかっこよさにあこがれて

猪俣 敏(地球システム領域 地球大気化学研究室 主席研究員)

こんにちは、国立環境研究所の猪俣です。ご紹介いただきました通り、皆さんの先輩になります。私は「研究学園都市」と呼ばれている茨城県つくば市で研究者をしています。

こんな田舎で育った私が研究者になったきっかけを最初に紹介したいと思います。まず小学校で学んだ公害問題が印象に残っていました。こういう田舎に住んでいて全くイメージがわかなかったからです。そして、大学に入った時には地球環境問題、その中でオゾンホールが話題になっていました。テレビでこの図のような衛星の画像が放送されているのを見て、紫の部分が南極の上空でオゾンの少ないところで「オゾンホール」になりますが、ブラックホールのように思い恐怖を感じていました。ところが、大学の講義で先生が、これは南極の春先だけで起こる現象でその後に戻るのだということをあっけらかんと話したのが衝撃的でした。今日は実際の南極の観測データの図について説明しませんが、本質を知ることは大事だなぁ、研究者はすごく冷静なのだなぁ、そうなりたいなぁと思いました。大気中で密かに起こる化学反応は目に見えませんけれども、そういうものが大気環境に大きく影響する場合があるので、それを研究する国立環境研究所に入りました。今は大気環境の研究として、室内実験やフィールド観察、衛星観測のことも少しやり始めました。

皆さんの先輩なので、高校時代を一年生から振り返りたいと思います。自転車で片道12kmの距離を毎日通っていました。ただし帰宅部です。それを今、少し後悔しています。部活動を何かやっていたら良かったと思っています。しかし勉強のほうは厳しくて、8時から朝テスト、平日は5時間、休日は12時間、自宅学習をしなければいけなかったと記憶しています。家に帰ったら疲れてすぐ寝てしまって、夜に起きて勉強、そのまま徹夜するか、夜明け頃に寝て、朝叩き起こされる、という生活をしていました。これは本当はやってはいけないのですけれども、私が今高校生に戻ったら同じ生活になるかなぁと思います。二年生から理系と文系に分かれます。私は理系を選択しました。選択科目は物理と化学で、始めは、物理は難しいというのを風の噂を聞いて、化学と生物という科目を選択したのですけれど、指導が入って物理と化学になりました。化学と生物を選択したというのも、なにか強い意志があったわけではなかったので、物理と化学に変更して、今となっては結果オーライかと思っています。そして進路指導が始まって、進学する大学を意識するようになりました。その当時は九州大学に行けたらいいなぁと思っていました。三年生の時、皆さんも三年生になったらそう感じるかもしれないですが、数学と物理の美しさというのに惹かれ、得意教科になりました。ラッキーなことに、私の代から国公立大学が二校受験できるようになりました。それまでは一校しか受験できなかったのですが。そして先生方からもっと上を目指せと言われて、大阪大学と東京大学を受験することになりました。大阪大学は合格しましたが、東京大学は不合格でした。

東京大学の不合格に悔しさが残りました。それで、東京大学を再度チャレンジすることを決意して、浪人生活を選びました。親に頼んで、東京で予備校に通いました。予備校では、席順は成績順で、自分がどの位置にいるかというのがわかるようになっていて、4人掛けの長椅子にぎゅうぎゅうに座らせられて、奥行きの狭い机で勉強させられていました。ここを早く出て行きなさいという意味だったのだと思います。そして翌年見事京都大学、東京大学に合格しまして、東京大学を選びました。今思うと、高校の勉強を普通にしていると、おそらく大阪大学のレベルは受かることができるのだと思いますが、京大、東大は少し違うのかなと感じています。それはやはり応用力のようなところまで、踏み込んで勉強しなくてはいけないのかなと思います。それで東京大学の理科一類に行ったのですが、入学してすぐ、数学、物理、化学と高校とは違うということがわかってきました。自分は何になれるのだろうかと不安を抱える日々がスタートしました。ただ親から仕送りをしてもらっているので、赤点だけは取らないように頑張りました。東京大学の場合は三年から学科に分かれるので、二年の時に学科の希望調査があるのですが、その直前に救世主が現れました。化学を教えていた先生なのですが、「数学が得意な人は地球物理学科に行くと良い」と言われまして、その当時、地球物理学科が何をしているのか知らなかったのですけれども、その言葉に流されて地球物理学科に行きました。そして三年の時にオムニバスの講義で、オゾンホールの話を聞いてから、そこの研究室に行くようになりました。そこで初めて大学院というものも知りました。9割方の人が大学院にみんな進学していましたので、ここも私は流されて大学院に行きました。またラッキーなことに大学院重点化というのがあって、定員が倍増したのです。そのせいもあって大学院に進学できたのかもしれません。大学院生は、研究者の卵ということになります。いろんなことを知らなかったので、観測の原理とか装置というのはやはり難しかったです。しかし、データ解析は高校の数学が活きたと思っています。今もそうなのですけれど、修士課程を修了するとほとんどの人が就職を選択します。私もまたここでも流され就職を選択しました。でも少し研究ができるところということで、国立環境研究所に入ることができました。就職後、研究者という肩書になりましたが、やはり未熟だったので、装置を原理から理解するということを自ら訓練をしました。測定や解析は早くて正確であることというのを心掛けました。それは今でも若い人たちにも負けないと思っております。就職した時は博士号(ドクター)を取っておらず、研究者としては一人前ではありませんでした。9年かけて博士号を取りまして、ようやく一人前になりました。大学に残っていれば3年で取れるところを9年かかっているので、私自身、修業の時間が長かったということになりますが、その分足腰はついたと思っております。

以上の私の半生を踏まえて私からのメッセージとしましては、「進路に迷う場合は、いろんな可能性が残るものを選択しておく」のがいいかと思います。それから「どういう道を選んでも努力は必要」で、短期的には報われないかもしれないですけれども、長い目でみれば、努力は裏切らないと思っています。自分の自信にもなります。「基礎学力がついていればどこでも応用できる」のではないかと私は思っています。大学で学ぶ難しい部分は、自分の道が決まった後に必要なところを学び直せばいいと思います。「人の出会いは、貴重」です。新しい気づきを与えてくれることがあります。ただし悪い方向に引っ張られないように気をつけてください。文系の人は「文章力とか伝える力」というのを身につけていくと思いますけれど、理系の人も将来のこと考えると、「文章力とか伝える力」を今のうちからつけておくといいと思います。

ここからは、「研究者を目指すこともありかなと思った人へ」ですけれども、博士課程の学生には生活の援助が手厚くなっていますから、親から独立するということも可能になりますので、研究者の道も考えてもらいたいと思います。それから研究者というのはかなり自由度が与えられます。普段着で勤務してもいいですし、裁量労働制というのがあって、一日の勤務も自由です。ただし研究成果を出すことは必要です。そしてその分野で世界一になれるかもしれません。スケールの小さい話ですけれど、私自身、2006年、もう20年も前ですけれども、その当時としては世界最高性能の装置を開発したという私がメインで書いた論文を発表しました。

今日は、私なりの研究者のキャリアパス(高校卒業→一浪→東大理一→東大大学院修士→国立環境研究所就職→(京大大学院論文博士取得)→現在に至る)を話しましたが、キャリアパスは人それぞれで様々でいいと思っています。同級生に頼んで、彼ら彼女らのキャリアパスを教えてもらいました。5名の方のものを紹介します。今日は個々の紹介はしないのですが、こういうものが皆さんのためになるのでしたら、同級生や卒業生に協力してもらって、皆さんに先輩たちのキャリアパスを見てもらえるようにしたいと思っております。私の話は以上になります。ありがとうございました。

キャリアを折り返して考えていることと、いま皆さんに伝えたいこと

梶野 瑞王(気象庁 気象研究所 全球大気海洋研究部 主任研究官)

皆さん、こんにちは、梶野と申します。私はつくばにあります気象庁の気象研究所というところで働いておりまして、猪俣さんがいらっしゃる環境研の隣にいます。僕自身は博士号を取得したのが2005年で、今が2025年ですので20年経ちました。定年が2042年なので、ちょうど半ばを過ぎたところ。そうすると、僕の年代の人というのは、これまでの20年を振り返りながらこれから先の20年を考えて、これからどうしていこうか、というような話をお互いします。おそらく皆さんは自分の将来がどうなっていくのかというのが良くわからないと思うのですが、今日せっかく皆さんとお会いすることができたので、自分の20年間を振り返って理解してきたことについて、何か伝えられるように頑張りたいと思っています。

少しキャリアの話から外れますが、いま一番お伝えしたいなと思っている「『便利』というものが人の能力を劣化させる」ということについて話をしたいと思います。今の時代は修理するより買ったほうが早くて便利ということがありますが、私は猪俣さんと筑波山頂の観測所で観測をしており、1990年代に作られた装置を使っています。今から30年前に作られた装置でガタがきてなかなか使えない。もう売っていないので新品は買えず、それを修理してくれる業者が今つくば市にいないのです。研究学園都市で、30年前の装置を修理する技術を持っている人がいない状況になっています。また話は変わり、最近生成AIが出てきて、それに聞けば何でも教えてくれるというようなことがあり、大変便利です。ですが、このあいだ学生さんが僕に「生成AIに聞きたいのですが、うまくいかないです」という研究相談をしてきました。「その前に僕に聞け」と言いました。われわれ研究者というのは、すごいことかもしれないし、すごくしょうもないことかもしれないけれど、少なくとも世の中の誰も知らないことをやろうとしているので、生成AIに答えられるはずがないと。そういうところで、まず生成AIに聞くというのはよろしくないという話をしました。要は、世の中のほとんどのことには答えがないので、こちらがAIに教えることはあっても、教えてもらうことはないという話です。
こちらの写真が先ほど話した猪俣さんと一緒に研究している装置になります。これは酸性霧の研究のために開発されました。昔、酸性雨の影響が顕在化しなくなった後に、酸性雨よりpHが低い酸性霧がより有害だということでこの研究が盛んになりました。その影響も顕在化されなくなり、もうこの装置は売られていません。しかし、いまだに酸性霧のメカニズムというのは解明されていないので、これをまだ現役で活用しないといけないというような話があったりします。

もう一つ、私が好きなグラフをお見せします(→https://motifyhr.jp/blog/training/dunning-kruger_effect/; 2026年1月21日アクセス)。「ダニング=クルーガー効果の曲線」を皆さん知っていますか。「馬鹿の山」というのがあって、横軸が知恵で、縦軸が自信になっている。最初というのは、いろいろ勉強していって、すごく自信が高い状況になる。少しの知識を得て、自信に満ち溢れている状態になる。その後それをずっと勉強していると、その知識の知恵の深さに気づいて、自信を失う絶望の谷というような状況になります。そこから少しずつ頑張って、最後は継続の大地になる。私自身は今、どの辺にいるかはわからないですけれども、おそらくは絶望の谷にいます。ただ絶望というよりは、何も分からない状況で、それを楽しんでいるというような、そういうニュアンスかもしれません。先ほど言った生成AIとか、あるいは分かったようなことを話すユーチューバーとか、そういうようなものは、全部馬鹿の山のところにいる、私はそう思っているところです。

博士とは何か、という話をします。博士については、その先ほど猪俣さんがほとんど説明されました。猪俣さんとは違うキャリアパスですが、私は博士課程に入っていました。大学に入ると学部があって、修士が二年あって、そこから博士が三年あります。日本で博士課程というのは一番入るのが簡単で、そのうえで日本で一番出るのが難しい課程です。もう一つ博士というのが良いのは、世界で唯一、世界中で使える資格ということです。博士号を取ると、アメリカで働きたいとか、イギリスで働きたいと思った時に、もちろん研究能力が必要ですけれども、そこに出せる(申請する)資格があります。博士号を持っているというと、研究所や大学でどこでも働ける。また、博士というのは、基本的に全てを疑うところから始めます。極論を言ってしまうと、馬鹿の山に惑わされないということです。その中で真実とおぼしきものを何か一つ見つけたら、それで論文を書く。論文に対して大体2人か3人位なのですけれども、それを疑う他の専門家と意見を戦わせます。それは文章で、紙面上で意見を戦わせるわけですが、それが大体1ヶ月位掛かります。その専門家達を説得したら、論文を発表することができます。これを2、3回繰り返すと博士号が取れるというような仕組みです。それによって何が得られるかというと、深い思考力が身につくということ、もう一つは、恐怖から開放されるというのがあります。これは何のこっちゃという話なのですが、例えば、未曾有の危機と社会の混乱というのがあります。恐怖は社会を混乱させるということです。2011年に福島第一原子力発電事故があって、社会がだいぶ混乱しました。皆さん生まれていないかもしれませんが。その後、皆さんも経験したと思いますが、コロナ渦がありました。この時に多くの人が「分からないものは怖い」と感じたのではないでしょうか。ですが分かれば怖くなくなるものです。私自身、幸いなことに2011年当時は環境放射能の専門家が私の上司だったということと、またコロナ禍では「エアロゾル感染」という言葉が流行りましたが、私はエアロゾルの専門家だったので、比較的早い段階から状況を理解し、恐怖心をなくすことができました。もちろんこれらについて、悲しいという感情はついてきます。福島に行くと、帰還困難区域の町庁舎に幼稚園児の寄せ書きがあって「また戻って来られたら、みんなで仲良くやりたいね」とあるのを見て、すごく悲しくなりました。またコロナ禍でも、尊敬する先輩を亡くしたのですが、それはもう悲しいことでした。ですが、それとはまた別の問題として、そういう意味で博士というのは国難に強いところがあると思っているので、私自身は日本に一人でも多くの博士を増やしたいと思っています。

さらに、幸せな博士を増やすという思いがあって、博士課程は結構しんどいので、メンタルケアも含めて幸せな博士を増やしたいと思っています。それでは、どういう資質の人達が博士になれるのか。皆さんは、STEM教育などで科学のことに関してはよくわかっておられると思うのですが、猪俣さんもおっしゃっていましたけれど、大事なことは国語であるということを言いたいです。国語というのは「考えること」それから「意見を戦わせる」、それによって自分の考えを鍛え直して、それをさらに深く考えるために必要なものです。それから、研究というものは、国語に始まって国語に終わります。申請書を書いて、お金、予算をもらって研究し、最後に論文にする。結局論文に書かない研究というのは忘れられてしまうので、それが非常にクリティカルであるということです。先ほどオゾンホールの話がありましたけれど、オゾンホールでノーベル化学賞を取った人というのは、皆さん知っているわけです。でも、オゾンホールを発見した人というのは意外と知られていません。ノーベル賞は理論で取ったのですが、それを発見した人は論文になっていないので知られていません。それから喋りの上手い下手というのはほとんど関係がありません。しゃべりが上手いというのは、いわゆる論破力とか、あるいは説得力があるとか、頭の回転が速いとかいうのですけれども、それは基本的に研究に関しては関係がない。ものすごくゆっくり話すのに素晴らしい研究者は居ますし、英語のリスニングが苦手でも書ければ良いので名大の益川先生はノーベル賞を取りました。文章で1ヶ月かけて相手を説得すればそれでいいということです。また、どういう人が博士になるべきかという話は、向き不向きは関係ないと思っています。どういう人が向いているかどうか、自分がこれからキャリアを考える時に何に向いているかとか、これに向いているかなと思うかもしれないですけれども、それというのは結構思い込みであることが多くて、それに入るまで向いているかどうかわからないところがあります。それから石の上にも三年という言葉があります。これはもう私自身強く実感しているのですけれど、三年いると環境が自分に馴染んできて、そんなに辛くなくなるということです。夢があった方がいいか、夢がなくてもいいかという話ですけれども、夢があった方が原動力になるので、それはあった方がいいと思います。でも、夢がないということは、それだけいろんなことを許容できる器があるというところでもあるので、夢がないということも、特に気にしなくてもいいのかなというように思っています。そして、どういう人がなればいいのかというと、これは本当に正解がないことで、いろんな人が研究者になって、いろんな方向からいろんな手法でやっていて、その中でうまくいった人が成功できたというようなことです。結局はその研究というのは、ほんの一握りの人が世の中を大きく前に進めるというところがあるので、つまり研究者の母数と多様性が大事であるということになります。

あとは、ほとんどの物事には答えがないので、人に聞かずに、あるいは調べずに、ということです。調べると答えが分かってしまうので、調べずにまずは自分の持っている知識だけで思考してみることが大事だと思っています。皆さんの同郷の英雄である三浦梅園先生というのは、当然その教科書がないわけなのですけれども、教科書がない時代でも、自分で考えて物事の本質に迫ろうとしたということがあるので、まず考える。なんでこうなっているのか考えるというのが、大事だというように思っています。

皆さんは今学生さんで、どこかの会社に入るなりして新人になります。その時に自分の能力をどんどん上げていく時期があると思います。それが一人前になると、そのままある程度力を継続して行くというようになるのですけれど、これで何が言いたいかというと、すぐに答えを教えてもらうというのが、逆に馬鹿の山に登ることと同じことになってしまうということです。成長は遅いかもしれないけれども、目先のパフォーマンスにとらわれずに「自分なりにいろいろ努力して考えていく」ということをやっていく。それは結果的には時間がかかるかもしれないけれども、より高い技術力に繋がるのではないかという風に考えています。社会全体で考えると、それぞれがそのまま国力となる。国力がないということは、皆さんの生命と財産と幸福が脅かされるというように繋がるので、それぞれ皆さんが時間をかけて成長していければいいのではないかということが、少し長くなりましたが最後の結論です。

キャリアの選択に迷っている人がもしこの中でいるとしたら、基本的には私の考えとしては「どこでもいい」ということです。どこにいても、自分の夢が見つかると思うので、まずはあまり何も考えずに直感で選ぶ、と。結果、選べなくても、選んでいない場所に入ったとしても、そこに入ってから努力するということです。猪俣さんがおっしゃったことと同じなのですけれど、皆さん好きな仕事をやるのではなくて、自分の仕事を好きになるということで、いろいろ頑張ってもらう。高校で終わりではなくて、その後に大学があって、大学院があって、修士課程、博士課程があります。博士課程というのは、最初に言った通り、日本で一番入るのは簡単です。こういう研究がしたい、こういう論文を書きたいと言ったら入れてもらえます。いろんなキャリアパスがあるかもしれないけれど、最終的にやりたいことはできると思うので、あまり目先のことに囚われず頑張って下さい。

Air Mail大分県国東市の出張報告

  • 川尻 麻美(地球システム領域 地球環境研究センター/衛星観測センター)

■くにさき宇宙教室 シンポジウム、大分県立国東高等学校の講演会 概要

昨年12月に開催した「くにさき宇宙教室 シンポジウム 最新の科学で調べる 地球の大気と惑星の大気」に引き続き、2025年10月13日に「くにさき宇宙教室 シンポジウム 君も宇宙の守り手に!~月面開発と地球環境観測の最前線~」を大分県国東市で開催しました。そもそもなぜこのようなシンポジウムが開催できたかといいますと、国立環境研究所地球システム領域地球大気化学研究室の猪俣 敏主席研究員が大分県国東市出身のため、猪俣主席研究員から地元貢献の施策ということで講演会を国東市へ提案し、国東市役所・国東市教育委員会からご快諾いただき多大なご協力を頂きまして開催することができました。今回の講演会でも、温室効果ガス・水循環観測技術衛星(Global Observing SATellite for Greenhouse gases and Water cycle: GOSAT-GW)による温室効果ガスの監視についてなど、多くの人に紹介することができました。猪俣 敏主席研究員の他、気象庁気象研究所全球大気海洋研究部主任研究官の梶野 瑞王氏、横浜市立大学大学院生命ナノシステム科学研究科准教授の関本 奏子氏、JGC日揮グローバル株式会社月面プラントユニットリーダーの深浦 希峰氏にも講演いただきました。
今年は、2025年10月14日に猪俣 敏主席研究員の母校である大分県立国東高等学校で猪俣 敏主席研究員と梶野 瑞王氏がキャリアパスに関する講演も行いました。この講演の様子は以下の記事にて紹介しておりますので、ぜひご一読ください。

■大分県国東市の視察~ケベス祭~

昨年に引き続き今年もシンポジウムを開催するにあたり、国東市役所政策企画課のご担当者様のご提案で大分県国東市のことをもっとよく知るために「ケベス祭」に参加させていただくこととなりました。国東市のHPによりますと、ケベス祭は「起源や由来は一切不明の火祭り」「参拝者は火の粉を避けて逃げまわります。」(引用:「市内民俗行事のケベス祭」国東市役所https://www.city.kunisaki.oita.jp/soshiki/bunkazai/shinaiminzokugyojikebesu.html)との説明があり、国東市のことを知ろうとしたらますます知らないことが増え、奥深い市だなと思いました。

文化庁の「国指定文化財等データベース」で「ケベス祭」を検索したところ「この行事は、宮付の家々とトウバグミとで行う宮座の行事であり、(中略)ケベスと呼ぶ奇妙な面をつけたケベスドンが主役を演じる火祭りとして知られている。」(引用:「国指定文化財等データベース 記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」文化庁https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/312/743)という説明が記載されていました。とにかく、火が使われる祭りなんだな・・・と理解したところで、ケベス祭に参加されたことがある国東市役所環境衛生課の河村課長から以下のアドバイスを頂きました。

「とにかくいろいろ燃えるので、燃えにくい服や帽子、火の粉を防ぐバスタオルみたいなものをご用意いただいた方が良いです。」

想像の10倍くらい火が使われそうなお祭りだと認識を改め、アウトドア用品を取り扱っているお店で難燃性のジャケットを購入しました。

当日は、夕方頃に国東市役所環境衛生課の河村課長のご自宅に伺い、ケベス祭の歴史、毎年のお祭りの様子など説明いただきました。ケベス祭は平成12年12月25日に文化庁長官によって「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択されています(引用:「無形文化財」文化庁https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/mukei/)。お祭りの手順などが現在にまで伝わっていることに驚きましたし、お祭りを実施する方々の「この祭りを続けよう・未来に伝えよう」という強い思いも感じました。ちなみに、河村課長にお祭りの開始時間を質問したところ、「夕闇迫る頃、としか伝えられていなくて・・・」と回答いただきました。1日24時間の考え方がまだ日本に無かった頃に生まれたお祭りであることを再認識しつつ、河村課長の経験則に基づき18時過ぎに祭りの会場である櫛来社(岩倉八幡社)に向かいました。

会場に入る前、国東市役所政策企画課の方から、国東市役所関係者と分かればそんなに追い回されないかも・・・とのことで、「国東市」と記載されたネームタグを渡されました。結果的には、一般の参加者の方々と同様に逃げ惑い難燃性のジャケットのフードは一部燃えましたが、そのお気持ちだけでたいへんありがたかったです。

「国東市」ネームタグ
(写真:「国東市」ネームタグ)
難燃性ジャケットのフード
(写真:難燃性ジャケットのフード)
ケベス祭の会場の様子 (国立環境研究所 広報室 成田正司氏 撮影)
(写真:ケベス祭の会場の様子 (国立環境研究所 広報室 成田正司氏 撮影))
ケベス祭の会場の様子 (国立環境研究所 広報室 成田正司氏 撮影)
(写真:ケベス祭の会場の様子 (国立環境研究所 広報室 成田正司氏 撮影))
ケベス祭で火の粉を振りかけられる場面 (国立環境研究所 広報室 成田正司氏 撮影)
(写真:ケベス祭で火の粉を振りかけられる場面 (国立環境研究所 広報室 成田正司氏 撮影))

■最後に

昨年に引き続き大分県国東市でイベント開催補助を行うことができ嬉しく思います。
イベント開催にあたりご協力いただいたみなさま、誠にありがとうございました。
今後とも、地球環境研究センター、衛星観測センターの業務にご理解・ご協力いただけますと幸いです。

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