2009年9月3日
こんにちは、国立環境研究所の江守正多です。少し前の話になりますが、7月にイタリアのラクイラで主要国首脳会議(G8サミット)が開催され、引き続いて中国、インドなどの新興国を加えた主要経済国フォーラム(MEF)が行われました。
この2つの会合で、「産業革命以前からの気温上昇を2℃(セ氏2度)以内に抑制する」ことに合意が得られた、というような報道をいくつか見かけました。みなさん、これをどうご覧になったでしょうか。僕がこの報道に触れたときの最初の反応は、「エーッ? それ、本当に合意したとすると、モノスゴイことですよ」というものでした。この「2℃」の意味については、第2回目のコラムも少し触れましたが、今回はより詳しく見ていくことにしましょう。この問題は既にBPnetのコラムで山口光恒さんが解説【2015年2月現在リンク切れ】しておられますが、ここではより科学的な観点からの解説を試みたいと思います。
まず、事実関係から確認します。ラクイラ・サミット首脳宣言の該当箇所の記述は、外務省仮訳によれば以下の通りです(第65項)。中国、インドなどの新興国を含むMEFの首脳宣言にも、ほぼ同じ記述があります(第1項)。
我々は、産業化以前の水準からの世界全体の平均気温の上昇が摂氏2度を超えないようにすべきとの広範な科学的見解を認識する。
というわけで、宣言の記述によれば、「2℃以内に抑制することに合意する」ではなく、「2℃を超えないようにすべきとの広範な科学的見解を認識する」です。
これは、微妙な言い回しの違いに見えるかもしれませんが、大きな、かつ本質的な違いです。つまり、「2℃を超えないようにすべきと科学が言っているのはわかった。しかし、他にもいろいろ考えなくちゃいけないことがあるので、2℃を超えないことを目標にするという判断には至っていないよ」というのがこの宣言文のニュアンスだと思います。
「なーんだ」という感じで、それならば、それほどびっくりするような宣言ではありません。しかし、それが「合意」だったとしたら、なぜ僕はそんなにびっくりしなければならなかったのでしょうか。それをわかって頂くために、「2℃を超えると本当にいけないのか」と「2℃を超えないためにはどれくらい対策が必要か」の2段階に分けて見ていきましょう。
科学が示している見解とは具体的にどんなものでしょう。温暖化が人間社会や生態系にもたらす影響について包括的にまとめた、IPCC第2作業部会の第4次評価報告書を見てみましょう。この中で、「2℃」の件に最も関係しそうな記述を探すと、以下のように書いてあるのが見つかります(IPCC第4次評価報告書第2作業部会報告書技術要約 p.51「主要な脆弱性」)。
世界平均気温が1990年〜2000年水準より最大2℃上回る変化は、現在の主要な脆弱性を一層悪化させ、また、多くの低緯度諸国における食料安全保障の低下など、その他の脆弱性ももたらすだろう。同時に、中緯度・高緯度における地球規模の農業生産性など、一部のシステムは便益を得るであろう。
世界平均気温が1990年〜2000年水準より2〜4℃上回る変化は、主要な影響の数をあらゆる規模で増加させることになるだろう。例えば、生物多様性の広範な喪失、地球規模での農業生産性の低下、グリーンランドと西南極の氷床の広範な後退の確実性などが挙げられる。
世界平均気温が1990年〜2000年水準より4℃を超えて上回る変化は、脆弱性の大幅な増大をもたらし、多くのシステムの適応能力を超えることになるだろう。
つまり、90年代の水準から2℃までの温暖化は、悪いこともいろいろ増えて心配ですが、寒い地域の農業などには良いこともあるでしょう、と言っています。2℃を超えると、いろいろと大規模な悪いことが起こり、農業にも地球全体で見てマイナスですよ、ということです。そして、4℃を超えたらさすがに社会は耐えられないでしょう、論外です、というニュアンスです。
ただし、ここでの気温上昇の基準は90年代の水準であり、産業化以前の水準ではありません。90年代には産業化以前から既に0.5℃ほど世界平均気温が上がっていますから、IPCCが言っている「90年代の水準から2℃」は「産業化以前の水準から2.5℃」に相当し、サミットで言っている「産業化以前の水準から2℃」とは一致しません。
上記は、さまざまな影響を総合的に見た場合の話です。個別の現象についても例を1つ見てみましょう。たとえばグリーンランド氷床の大規模な融解は、世界平均気温が90年代の水準から1〜4℃(産業化以前の水準から1.5〜4.5℃)の上昇で始まるとされています。つまり、産業化以前の水準から1.5℃でも、始まってしまう可能性があるのです。この融解をもしも「確実に」(ないしは非常に高い確率で)避けたければ、サミットの認識よりも厳しく、「産業化以前の水準から1.5℃を超えないようにすべき」と認識する必要があることになります。
ここで「1.5℃」ではなく「2℃」を目指すとすると、それは、グリーンランドの融解に関して、何らかのリスクを覚悟することを意味しています。同様に、「2℃」ではなく「2.5℃」を目指すとすると、温暖化の諸影響に関して、さらに大きなリスクを覚悟することになります。このように見ると、どのくらいのリスクを覚悟するかは程度問題であることがわかると思います。そして、どの程度のリスクを覚悟するかは、社会が判断しなければならない問題です。つまり、「2℃を超えると本当にいけないのか」という問いの答えは、科学が客観的に決めてくれるのではなく、科学を参考に、社会が判断しなければならないことがわかると思います。
これはちょうど、天気予報を見て傘を持っていくかどうか判断することに似ています。降水確率がたとえば30%だったときに傘を持っていくかどうかは、傘を持たずに雨に降られたときにどれくらい困るか、傘を持っていくのがどれくらい面倒か、などを(多くの場合は無意識にかもしれませんが)考えて判断すると思います。また、同じ条件でも、心配症な性格の人と行き当たりばったりな性格の人では異なる判断をするでしょう。
これと同じような判断を、温暖化の問題に関しては、世界全体でしないといけないのです。ですから、たとえば「2℃を超えないようにすべき」ことに世界が合意するのは、簡単そうに見えて、実はモノスゴイことであるのがおわかり頂けると思います。
サミット首脳宣言では、先ほど引用した「2℃」の箇所に引き続いて、以下の記述があります(MEFでは中国等の反対でこの内容には合意できなかったので、MEFの宣言にはこの記述がありません)。
我々は、2050年までに世界全体の排出量の少なくとも50%の削減を達成するとの目標を全ての国と共有することを改めて表明する。
しかし、第2回のコラムで説明したように、排出量と気温上昇の間の関係には科学的な不確かさがあります。2050年に世界の排出量を50%削減する場合、2100年に世界の平均気温が産業化前の水準から2℃以内に収まる可能性は50%程度です。つまり、サミットで掲げている目標を達成しても、運が悪ければ「2℃」を超えてしまうのです。
より確実に「2℃」を超えないようにするためには、たとえば50年に世界の排出量を80%削減するといった、より厳しい目標が必要です。しかし、50%削減でさえMEFで合意できなかったのですから、80%削減を言い出すのは難しいでしょう。
さて、この問題についても先ほどと同じ考え方ができます。仮に「2℃」を超えるべきではないと認識したとして、実際の政策目標は、「何%の確率で2℃を超えない」という形で設定する必要があるのです。そして、そのとき、ある程度の確率で2℃を超えるリスクを覚悟したことになります(ただし、今回の宣言文では「少なくとも50%の削減」と書くことによって、削減が厳しい側に幅を持たせ、その判断を保留していると見ることもできます)。
というわけで、今回、僕が言いたかったのは次のようなことです。
「科学に尋ねれば、温暖化の大規模な悪影響のリスクをゼロにできる目標を教えてくれる」、そして「非常に野心的な目標を設定すれば、科学が教えてくれたその目標を目指すことができる」と考えるのは、ナイーブすぎます。
「2℃」を超えることが危険である確証は無いですが、同時に、「2℃」以下に留まることが十分に安全である保証もありません。また、50年に世界の排出量半減といった野心的な削減目標を達成したとしても「2℃」以下に留まれる保証はありません。
もちろん、極端に安全側に立って、たとえば「産業化以前から1.5℃以内」を「確実に」達成するために、50年に排出量ゼロやマイナスを目指す、という考え方もあり得ます。しかし、その場合は、それを目指すことによって代わりに失うものが何であるかもよく考えておく必要があるでしょう。
このような意味で、われわれ人類はすでにある程度のリスクを負っているという自覚が必要だと思います。その上で、どの程度のリスクを覚悟するかという、極めて高度な判断を迫られているのです。そのように自覚された上での政治的な決断がされるならば、それはたいへん結構なことだと思います。しかし、そのような自覚なく、「2℃」を安直に認識したり同意したりすることは、科学的な観点からはかなり心配に見えます。
「2℃」の問題は、これから12月のコペンハーゲンのCOP15に向けてまた出てくるかもしれません。その際、これがそう簡単な問題でないということだけでも思い出してくださるとよいと思います。
では、今回はこのあたりで。
[2009年9月3日/Ecolomy]